英国競馬1960(3)

1960年の英国競馬、3回目は愈々ダービーです。

さて1マイルの2000ギニーを争ったマーシャル Martial とヴェンチャー Venture Ⅶ は共に1マイル半に適した血統ではなく、当初からダービーは視野に入っていませんでした。日本では皐月賞馬が距離を理由にダービーをパスすることなどあり得ませんが、英国では珍しいことではありません。(もちろん皐月賞は2000メートルという要素もあるでしょう)

1960年のダービーで中心視されていたのは、フランスから遠征して来たアンガース Angers です。既に前回ネヴァー・トゥー・レイト Never Too Late Ⅱ に関連して紹介しましたが、2歳時にグランクリテリウムに優勝、3歳になってジャン・プラ賞とオカール賞というロンシャン競馬場の二つのクラシック・トライアル戦も圧倒的な強さで連勝し、エプサム・ダービーでは2対1の本命に支持されていました。

この年の英国勢には目立った有力馬が不在ということもあり、2番人気にはアイルランドから遠征して来たダイ・ハード Die Hard が祭り上げられていました。
(ダイ・ハードには、1958年のイヤリング・セールで最高値で取引されたという期待も手伝っていたと思われます)

そして漸く3頭横並びで7対1の3番人気に、これもアイルランドの2頭キスノス Kythnos とタルヤートス Tulyartos と並んで英国のセント・パディ St Paddy が続いていました。

さて、1960年のダービーは後に「悲劇のダービー」と呼ばれるほど、様々なアクシデントに見舞われます。
先ずレース前日、エプサム・ダウンズ(競馬場の本コース)で行われた調教で、アイルランドから挑戦して来たエクスチェンジ・ステューデント Exchange Student が脚部骨折を発症して殺処分されてしまいます。

更にウィンストン・チャーチルの所有馬でダービー制覇の期待が寄せられていたヴィエナ Vienna は、レース前の装蹄のミスから出走を断念せざるを得ないアクシデントに見舞われました。
(ヴィエナは、同じ厩舎の調教仲間であったオーロイ Auroy より上の馬で、結果としてこのダービーでオーロイは4着に入っています)

そしてレース本番、圧倒的な1番人気に支持されていたアンガースは後方待機策を取りましたが、ゴール前6ハロンの地点で骨折して落馬してしまいます。当初は馬を救うべく処置が施されましたが、骨折個所は複数に及び、結局は安楽死の道を選ばざるを得ませんでした。

このアクシデントは馬群の後方での事故、レースそのものには大きな影響を与えなかったのは不幸中の幸いでしょうか。

このダービー、好位から危なげなく抜け出して2着以下に3馬身差を付けて楽勝したのがセント・パディです。

2着にはアルカエウス Alcaeus 、3着にキスノス Kythnos が入線。先に記したようにオーロイが4着に入りました。
以下5着にプラウド・チーフテン Proud Chieftain 、2番人気のダイ・ハードは6着に終わっています。

なおこのダービーには後に日本に種馬として輸入された馬が数多く出走しており、我々日本の競馬ファンにとっても懐かしい名前が綺羅星の如く並んでいることにも注目しましょう。
先に触れたオーロイ、タルヤートス、ダイ・ハード、それに先行してバテたチューダー・ぺリオッド Tudor Period 。

優勝したセント・パディは大オーナーであるヴィクター・サッスーン卿の自家生産馬。卿の馬を数多く手がけていたノエル・マーレス師が調教していました。騎乗したのは、この当時のマーレス厩舎の主戦ジョッキーでもあった名手レスター・ピゴット。

ピゴットにとっては1954年のネヴァー・セイ・ダイ Never Say Die 、1957年のクレペロ Crepello に続く3度目のダービー制覇となりました。

更にオーナーのサッスーン卿にとっては4頭目のダービー馬。1953年のピンザ Pinza 、1957年のクレペロ、1958年のハード・リドン Hard Ridden に続くもので、何と8年間で4回のダービー制覇という驚くべき記録を達成したことになります。(卿のダービー制覇はこれが最後)

この内、マーレス師が調教したのはクレペロとセント・パディだけですから、師にとってはこれがダービー2勝目となります。

セント・パディは、父オリオール Aureole 、母エディー・ケリー Edie Kelly という血統。オリオールには問題が無いとしても、母は大した競走成績もなく、セント・パディに先立つ2頭の産駒も目立った戦績を残していませんでした。一部のジャーナリストが同馬のダービー制覇の可能性に疑問を呈していたのは、この血統的背景にあります。

それでもセント・パディは最初からクラシック・レースを目標に調教され、2歳時には僅か2戦しか経験をさせていません。
8月のヨーク(アコウム・ステークス)でデビューして人気になりますが、余りにも馬が若くて着外に終わりました。

しかし素質と言うべきか、2戦目にアスコット競馬場で1マイルのロイヤル・ロッジ・ステークスを楽勝してしまいます。
このレースを現場で見たファンは、“来年のダービーはセント・パディで決まり!” と確信したのだとか。

明けて3歳になったセント・パディの目標は当然ダービー。いきなり2000ギニーにぶつけますが、これは未だ調整途上で、全く良い所なく凡走します。期待した一部のファンは失望したようですが、厩舎サイドは予定してのことで、順調と判断します。
それを証明するかのように、続くトライアルに選んだヨーク競馬場のダンテ・ステークスを圧勝して本番に臨んだのでした。

セント・パディはこの後セントレジャーも制して二冠を達成しますが、長くなりましたので次回に続けることにしましょう。

 

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