ラボ・エクセルシオ/20世紀・日本と世界Ⅲ

昨日は、大雪を全て吐き出した雪雲が東京湾に嵐の如く吹き付ける中、晴海の第一生命ホールに逃げ込みます。
クァルテット・エクセルシオが取り組んできた20世の日本と世界の弦楽四重奏を対決させるシリーズ、今回は3回目にして恐らく一段落となるコンサートです。

シュニトケ/弦楽四重奏曲第2番(1980)
シュニトケ/弦楽四重奏曲第3番(1983)
     ~休憩~
西村朗/弦楽四重奏のためのヘテロフォニー(1975~1987)
西村朗/弦楽四重奏曲第2番「光の波」(1992)

今回は前回のようなプレトークは無く、開演時間定刻に演奏が始まりました。しかし聴き手にとって事前の予習が無かったわけではなく、豊洲では西村朗氏自らが作品解説を行うレクチャーが開催され、もちろんエクによるナマ演奏も行われたようです。
また、これとは別にエク恒例の試演会も行われていて、私は1月30日に恵比寿で行われた試演会に参加していました。

これらを総合して感想を述べれば、やはりこれは一つのコンサートとして実に充実していたと申せましょう。
今回の4曲は全て私にとっては初体験で、辛うじてシュニトケを録音で聴いた程度だし、楽譜もシュニトケの2番にザッと目を通しただけ。とてもとても内容にまで立ち入ることはできません。

そのシュニトケの2番は4楽章からなる作品で、全体は単一楽章のように通して演奏されます。第1楽章と第4楽章は同じ素材が使われていて、古代ロシアの讃美歌が基本になっています。
冒頭や最後は弦楽器の特殊奏法、特にフラジェレットによる高音が使われ、チョッと聴くと擦れたような雑音にも感じられますが、注意して聴けば宗教的且つ精神的な深いエレジーが感じ取れます。

しかし圧巻は2楽章と3楽章でしょう。チェロの大友氏が語るように、“この作品を選んだのは両楽章の強烈さに圧倒されたため” とか。
特に第2楽章に何度も繰り返して出現するアルペジオ風の強烈な楽想は、四つのパートが夫々完全に異なる音価・アクセントで突き進むもの。技術的に極めて難度の高い音楽を見事に弾いてのけるエクの実力に改めて舌を巻きます。

これに比べれば、第3番はシュニトケとしては聴き易い音楽でしょうか。3楽章から成り、多くの引用が用いられているようです。
例えば冒頭のルネサンス風音楽はオルランド・ディ・ラッソのスターバト・マーテルの由。これに直ぐ続くのはベートーヴェンの大フーガの冒頭動機、これは素人の私にも認識できます。
更には先輩ショスタコーヴィチのイニシャルであるD-Es-C-Hもチラッと覗いたりして、何か意味ありげに響くのでした。

しかしこの中で最も重要なのはラッソでしょう。三つの楽章の彼方此方にそのカデンツァ音型が現れて作品を統一して行きます。
第2楽章は思わず口ずさみたくなるようなワルツ風のリズムが予想外に楽しいし、第3楽章の気分はほとんど葬送行進曲。タッタ・ター、というリズムが耳に残ります。

どれも引用であるような無いような、不思議なシュニトケ・ワールドを弾き出すエクの演奏も極めてレヴェルの高いもので、西野氏が目指した、“作曲家のキャラクターを存分に表現” していたと思います。

後半は1953年生まれの西村朗。シュニトケより二回り下の世代ですね。

最初のヘテロフォニーは、表記は無いものの第1番に相当する弦楽四重奏です。作曲年代が示すように、何度も改訂を重ねて1987年に最終稿に至ったもの。

シュニトケ同様に弦楽器のあらゆる奏法を駆使した「現代音楽」でありながら、如何にも東洋的、日本的な響きに聴こえてくるところが不思議ですね。
もちろん作曲家自身が解説しているように、日本や韓国の雅楽、モンゴルの伝統音楽の影響によって書かれている故でしょう。

第2番は、第1番の決定稿を初演したアルデッティQのために書かれたもの。“演奏の難しい曲を書いてくれ” という要望があったそうで、見るからに、いや聞くからに演奏が難しそうな一品。
どうも弦楽四重奏曲というジャンルは、ベートーヴェンに倣って多くの作曲家が演奏家に対する挑戦状を叩きつけたくなる世界のようです。

作曲家によると、第2番は二つの部分から成るそうですが、私が通して聴いた印象ではあたかも4楽章構成のよう。
ショスタコーヴィチの最後の四重奏曲にあるようなグリッサンド風音型が中心となる部分は緩徐楽章のようだし、アクロバティックなテクニックを駆使したスケルツォ風な部分がこれに続きます。
そして最後はインドネシア・パリ島の「ケチャ」からヒントを得たリズム・ホケット。

止めは最後の最後でしょう。ここで作品全体を締め括るのは、作品を開始した短く鋭いモチーフ。実は最後の音は冒頭のモチーフを逆行させたもので、一種の円環構造を持っているのですね。

最後のクライマックスを聴いていて連想したのは、これは弦楽四重奏による「春の祭典」だ、ということ。

緻密な作品の構成を聴き手に意識させるのは、クァルテット・エクセルシオの優れた演奏力の賜物。
このことは試演会の時点で何となく感じたことでしたが、この日初めてプログラムの解説を読んで納得したことでした。
彼らの演奏が、解説をも上回る説得力と伝達力に優れたものである、ということの証明であろうと私は思いましたね。

いくつか書き残したこと。

●この日の女性メンバーの衣裳に注目。あたかもユニフォームを創ったかのように同一のデザインで統一されていましたが、三人三様のヴァリエーションがあります。
誰のデザインかと思いましたが、恒例の終了後の挨拶が無かったようで聞きそびれました。次の機会にでも尋ねてみましょう。

●シュニトケと西村に共通していたのは、エクの演奏が極めて構成的でシンフォニックだったこと。
交響曲は室内楽のように、室内楽は交響曲のように、という理想的なクァルテットの容を実現していたと思います。

●現代作品はホールよりスタジオで聴く方がリアリティーに富んでいる、と常々思っていましたが、今回ばかりは適度なホール・トーンを持つ本番の方が遥かに作品の理解には効果があったと感じました。
最初から大きなスペースでの演奏を想定した作品故なのでしょうか、それとも本番までに更に演奏力がアップしたからなのでしょうか。

いずれにしても嫌われがちな現代音楽、同時代の作品。私はここ2カ月の間にカレヴィ・アホの第7交響曲、湯浅譲二の奥の細道、そして西村朗の弦楽四重奏を、いずれも作曲家自身の立会いの下で聴いてきました。
そのどれにも共通していたのが、作曲家に対する聴衆の絶賛の声。

たとえ集客の困難を伴おうとも、演奏家やコンサートの企画団体は新しい作品の紹介を怠ってはいけないのです。

 

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