読売日響・第524回名曲シリーズ

3月の読響はスクロヴァチェフスキ月間。3種類のプログラムを二日づつ、計6回のコンサートがあります。私は他の用事が重なって最初のプログラムを聴き逃しましたが、昨日のサントリーホールで行われた名曲シリーズを聴いてきました。

スクロヴァチェフスキは3年間の首席指揮者としての立場を今月で全うしますので、一連の演奏会はフェアウェル・コンサートとしての位置付けにもなります。
私自身も今回で名曲シリーズの会員を辞します。4月以降の名曲シリーズは単品でピックアップすることになりますが、どうも魅力的な回が見当たりません。暫くは読響は定期だけを聴くことになりそうですね。

プログラムは以下のもの。

R.シュトラウス/交響詩「ドン・ファン」
スクロヴァチェフスキ/Music for Winds (日本初演)
     ~休憩~
シューマン/交響曲第3番
 指揮/スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ
 コンサートマスター/デヴィッド・ノーラン
 フォアシュピーラー/小森谷巧

真ん中に置かれた自作は、本来は前シーズンに予定されていたもの。完成が遅れたためにこのプログラムに組み込まれていました。その代わりに当初発表されていたプロコフィエフ(ロメオとジュリエットの第2組曲)は取り止めになりました。(このプロコフィエフは何年か前にも演奏され、私も聴きましたから悔いはありませんが)

それにしてもスタニスラフ・スクロヴァチェフスキは何という指揮者でしょうか。とても信じられない、というのがコンサートを聴いて最初に思い浮かんだ言葉。
マエストロは1923年生まれですから、現在86歳。この高齢にして、健在であるというに留まらず、なおかつ進化を続けているのです。
進化とは指揮者として? 音楽家として? いや、人間として! としか言いようがありません。

冒頭のドン・ファンからして聴き手を圧倒します。これはシュトラウスが二十歳の時に書いた作品。それを86歳の巨匠が振る。
スクロヴァチェフスキは、指揮台に上った瞬間、二十歳の若者に変身してしまうのです。音楽は嵐のような情熱を煽り、凄まじい推進力で突き進む。オーケストラが何と艶っぽい響きを撒き散らすことか。

スクロヴァチェフスキの眼は、音楽が突然暗い響きを奏でる個所に注がれます。ティンパ二の豪打が静まり、木管が短調の和音を響かせます。そのあと・・・。
フルート、クラリネット、ファゴットが順にヒラヒラと舞い降りた直後、弱音器を付けた弦楽器が sf で木管の短調の和音を模倣しますね。具体的には練習記号Uの14小節目。

マエストロはここでサッと右を向き、ディヴィジされたヴィオラを際立たせる。最初は木管で、次いで弦で奏されるのは単なる短調の和音ではなく、モチーフであることを聴き手に意識させるのです。「警告のモチーフ」と呼んでもよいし、「死のモチーフ」と読み変えても良いかも知れません。
このヴィオラの強調、ここがスクロヴァチェフスキなのです。このモチーフは、全曲の最後でトランペットによって止めを刺しますが、それがここで活きてくる。何と透徹したスコアの読みではありませんか。

読売日本交響楽団を含め、何と八つの団体から共同委嘱されたスクロヴァチェフスキの新作は、この日が日本初演でした。世界初演は2009年12月11日にザールブリュッケンで行われたばかり。

珍しくプログラムに掲載された楽器編成を転記すると、フルート3(アルトフルート、ピッコロ持替)、オーボエ3、クラリネット3(バスクラリネット持替)、ファゴット3(コントラファゴット持替)、サクソフォン3(ソプラノ・アルト・バリトン)、ホルン3、トランペット3、トロンボーン3、チューバ、ティンパ二、打楽器、ハープ、ピアノ(チェレスタも受け持ち)。打楽器は、ボンゴ、トムトム、テンプルブロック、マリンバ、ヴィプラフォン、チューブラーベル、シロフォン、グロッケンシュピール、シンバル、小太鼓というもの。
作曲者の解説によれば、「管楽器奏者、もっと正確にいえば『交響曲を演奏する』管楽器奏者のための交響曲」なのです。

全体は続けて演奏される4楽章構成。第1楽章はミステリオーソ、第2楽章が「アリア」と名付けられたレント、第3楽章プレスト・テネブロ―ソ、第4楽章がモルト・アレグロとなっていますが、要するに通常のシンフォニーのように、第2楽章が緩徐楽章であり、第3楽章がスケルツォ風の音楽、終楽章には静かに終わるコーダが付けられている構成です。
特に第2楽章では木管楽器にソロ的な役割が与えられ、読響の木管群の見事な演奏が輝きます。トロンボーンの速いパッセージでの高度な技術も見事。

作品はスクロヴァチェフスキの指揮同様、曖昧な個所を微塵も残さず、明晰そのもの。これが85歳の作品とはとても信じられません。それほど若々しく瑞々しい感性で満たされた名曲と聴きました。

それでいて、作品に流れる悲劇性について、「偉大な芸術が徐々に消えていき、表面的な見せかけの芸術にとって代わられようとしているこの世界の現状への私のリアクション」などとサラっと言ってのけたりするあたり、マエストロの老獪な自信も窺えるではありませんか。

作曲者が望んだ、「聴き手に強い感情を抱かせること」 に成功していたのは間違いありません。

前半だけで十二分にスクロヴァチェフスキを堪能した耳に、更にシューマンが追い打ちをかけます。

マエストロの描くライン交響曲は、幸福と喜びに溢れています。速目のテンポ、随所にこれまで聴いたことのない音を響かせながら、シューマンの幸せに充ちたライン川への思い出を綴っていきます。
堂々たる第2楽章が楽しげに響く様子と言ったら・・・。

スクロヴァチェフスキは、第3楽章から第5楽章までをほとんどアタッカで一気に演奏します。

その第3楽章。クラリネットが美しいテーマを出す時、伴奏のヴィオラがハッとするほどに浮き立ちます。スクロヴァチェフスキの眼は、これまで単なる伴奏としてしか演奏されてこなかったこのディヴィジされたヴィオラのパッセージに大きな意味付けを行いました。
ここもまた、スクロヴァチェフスキなのです。そして、またしてもヴィオラ!

マエストロの深いスコア読みは止まるところを知らず。

第4楽章に時折姿を見せる音階上昇モチーフが普通に8分音符で奏される個所と、これをトレモロで奏する個所とを明確に区別します。
この同じモチーフが、第5楽章でも同じように普通に演奏される所とトレモロに変るところを浮き立たせ、二つの楽章の関連を聴き手に意識させる。このことで、各楽章が一つの統一体としてのシンフォニーを構成することが見えてくるのです。

シュトラウスにしても、自作にしても、シューマンにしても、何となく聞き流せるような個所はただの一箇所もありません。それでいて聴く人を幸福感と満足感で一杯にしてしまう。

スクロヴァチェフスキは、その意味で稀有な指揮者であり、音楽家であり、何よりも人間なのです。この個性があればこそ、オーケストラは単なる足し算を遥かに凌駕した音楽を創り出すことが可能になったのでしょう。

何を聴き、何を読み、何を食べればスクロヴァチェフスキのような人間が生まれるのか。そこが知りたい、とは思いませんか?

この日のカーテンコールは何回続いたのでしょうか。会場はマエストロを何度も何度も呼び出し、オーケストラも一向に解散する気配を見せません。
スクロヴァチェフスキもそれを嫌がるのではなく、最後を惜しむように何度も客席に応える。そして、いつものようにコンサートマスターの手を取って退場を促す所でホールの灯が明るくなるのでした。

最後となる定期ではこういうわけにはいかないでしょうね。

 

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