読売日響・第491回定期演奏会
遂にこの日がやってきました。スタニスラフ・スクロヴァチェフスキの首席指揮者としての最後の演奏会です。
何事にも始めがあれば、必ず終りが訪れるもの。事実として受け止めなければいけません。
その最後の曲目は、マエストロの至芸とも言えるブルックナー一曲です。
ブルックナー/交響曲第8番
指揮/スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ
コンサートマスター/藤原浜雄
フォアシュピーラー/鈴木理恵子
不謹慎なことを言えば、私は“またブルックナーか” という気持ちがあったのは事実。スクロヴァチェフスキならもっと捻ったプログラム、スパイスの利いた選曲でラストを迎えてほしかったというのが正直な感想でした。
ブルックナーの8番は既に2002年9月の定期でも聴きましたし(その時は客演という立場でしたが)、その間にN響に客演したものも聴いています。従って私は三度目の体験。
それにしても偶然は重なるもの。ブルックナーの第8交響曲は同コンビで前日にも特別演奏会の形で演奏されましたが、全く同じ日に都響がインバルの指揮で演奏したはず(尤も、これはゲテモノ好きなインバルが第一稿を使って演奏するとクレジットされていました)。
更にこの定期の当日も広島では秋山和慶が振っていますし、明日(28日)は横浜でティーレマン/ミュンヘンフィルの来日公演もあるという具合。
何と4日間で5回の演奏機会があるというもて囃され方なのです。ブルックナーの苦笑が見えるよう。
ミスターSのラスト・コンサートという宣伝が見事に効を奏し、この定期のチケットは早くから完売になっていました。
しかし実際に会場に座って見回すと、纏まった空席もいくつか存在します。定期会員がパスしたとも思えない場所、あるいはこの日入っていたテレビ・カメラ用の予備席かとも思いましたが、何かカラクリがあるのかも知れません。
ステージを見上げると3台のハープが目に止まります。ハープのパートは一つですが、ブルックナーは出来るなら3台で演奏せよ、と指示していること。スクロヴァチェフスキはこの指示を忠実に実行しているのですね。
更にトランペットとトロンボーンの位置がいつもとは異なることにも気が付きます。即ち、普段は舞台中央奥のトランペットが右側(上手)に回り、中央はトロンボーンが鎮座しています。その左、ホルン群の隣にチューバがあるのは、8本使うホルンのうち4本がワーグナー・チューバーを持ち替えてチューバーと合奏するから。
これもミスターSの指示に間違いないでしょう。
7年半前にスクロヴァチェフスキ/読響のブルックナー第8を聴いた当時はブログもなく、感想を書き残しておく習慣もありませんでしたが、先ず大変なモノに接したという印象が記憶に残っています。
しかし音楽そのものに感動したわけではなく、マエストロの正に職人技とも言えるスコアの読みとオーケストラ・コントロールに感服し、その指揮のテクニックそのものに感動したという種類の「感動」。
今回の再演、私の感想は基本的には2002年の時とほとんど同じです。これはこれで実に見事なブルックナー演奏と言うべきでしょう。
その辺を少し詳細に記録しておきましょうか。
先ずスクロヴァチェフスキが使用する版。プログラムには「1890年版、第2稿」としか記載が無く、解説にも何も言及されていません。つまりハース版なのかノヴァーク版なのかについては知らされていませんでした。
私が聴いた範囲で想像する限りでは、第1楽章はハース版を使用しました。第2楽章はハースもノヴァークも同じですから問題ないとして、第3楽章はノヴァーク版そのものですね。
問題は第4楽章で、開始から暫くはノヴァーク版によって進められました。ところが再現部の第2主題が出る個所、具体的にはノヴァーク版の154ページ、練習番号Oo(ダブル・オー)の4小節前から突然ハース版に移行してしまいます。
そのままハース版で通すのかと思いきや、ハース版の671~674小節をカットしてしまいます。このカットはノヴァーク版でも採用されていますから、ノヴァーク版に戻ったと言えなくもありません。
後は最後まで両版とも同じ。
要するにスクロヴァチェフスキの姿勢は、ハース、ノヴァークに拘らず、あくまでも音楽が自然に流れるよう柔軟に両版の良いと判断した方を採用するということでしょう。
決してスクロヴァチェフスキ自身が追加や削除、ましてや変更を施したものではありません。敢えて言えば「折衷版」ということになりましょう。
スコアに対するスクロヴァチェフスキの独自な視点をいくつか指摘すると、例えば第2楽章の主題をタップリと歌わせる点。
更に楽章はこの上向旋律と、これを完全にひっくり返した下降旋律が絡むように進むのですが、練習記号Kの2小節目から出るファゴットの上向旋律をクッキリと浮かび上がらせる点も。
スコアをよく見れば、ここはフルート+クラリネットの下降に対してファゴットの上向が答える場面、夫々に mf が付されていて、その対照が意図されています。
特に注意せずに演奏すれば(聴けば、と言い換えてもよろしい)、ここは曖昧になり勝ちな個所。聴き手にここを気付かせるテクニックこそ、スクロヴァチェフスキのスクロヴァチェフスキたる所以なのです。
第3楽章にも見所がありましたね。
この構成をA-B-A-B-Aと見れば、最初のBでヴァイオリン・ソロと指示されている個所があります。具体的には練習記号Dの1小節目から。ブルックナーはここに Violin Solo von Dreien (3番プルトから)と書いてありますが、スクロヴァチェフスキは指示通り第1ヴァイオリンの第3プルトまででソロをスタートさせます。
しかしDの5小節目半ばから音量が f に変るところで第4プルトもソロに参加させるというテクニックを披露しました。
もちろん二度目のB(練習記号Kから)でのソロは、文字通りコンサートマスターのソロに任せるなど、ブルックナーが書き尽くせなかった指示を補足しつつ音楽を隅々まで聴き手に届けるところにも、マエストロの職人技を見る思いがしました。
演奏そのものが素晴らしかったことには異論がありません。
ただ、私の耳にはやや疲労感が感じられたのが残念でした。私の耳自体が聴き疲れ現象を起こしていたのかも知れません。
稀有な大曲、マエストロの高齢、楽員、特に金管奏者への負担を考えれば、その疲労感が前日から続けての演奏にあったのだとすれば遺憾なこと。
表現は適切ではありませんが、ドル箱と考えての特別演奏会であったなら問題でしょう。ここはオーケストラの主食とも言うべき定期演奏会を第一に考えて欲しかったと愚考するものです。
もちろん指揮者やオーケストラの問題ではなく、事務局が配慮すべきこと。
最後の1時間半は感動の裡に終了。この夜の聴衆もマエストロの名演に応え、指揮者が手を下ろすまで拍手を控えてくれました。
思えば2002年の9月、ルトスワフスキの管弦楽のための協奏曲を演奏した時、あまりの拍手の早さに聴衆の一人がその拍手に“早すぎるぞッ” と叱責したことがありました。
その後も所謂フライング拍手は横行し、マエストロ自身も客席に向かって拳を挙げて抗議したこともあるほど。
スクロヴァチェフスキが3年間の首席指揮者として残した最大の功績は、聴衆の啓蒙だったかもしれません。
スクロヴァチェフスキを称える拍手と歓声は終わる気配もなく、オーケストラからはマエストロの手に余るほど大きな花束が贈られます。
最後の愁嘆場は見たくないので、オーケストラが退場し始めると同時に私も席を立ちました。
会場を出ると、咲き始めたばかりの桜に冷たい雨が細々と降り注いでいます。開花した花を出来るだけ長持ちさせようという天の差配に違いありません。巨匠スクロヴァチェフスキと読売日本交響楽団の絆のように・・・。
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