強者弱者(137)

帰省

 十一日より各学校、各官衙ともに暑中休暇。此頃市内各停車場に学生の帰省の途に上るもの多きを見る。白地の単衣に小倉の袴を穿ち行李を負うて昂然たり。手に土産ものを携へたるは、劫々に如才なき方と知る可し。中には鼻下に髯など蓄へたる大の男もあり。『國へ帰る』といふ優しき語と此人達の平生口癖のやうにいふ『生の充実』『生の空虚』などいふいかめしき語と思い合せてほゝ笑まる。
 幼き頃、東京より帰りたる村の青年の田舎には見なれぬ、帽子、襯衣、猿股など身につけて山に川に遊び暮せるを、田舎臭き身をかねて思ひの限り羨みわびたりしことなど思ひ出でたるもをかし。今は紅塵堆裡に没頭してまた『國』あるを忘れたり。夏の夕南郊の岡に踞して遠くなりまさりゆく列車の音を聞き、消えゆく煤煙のかすかなるを眺めて甘愁そぞろなり。

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現代の感覚では、暑中休暇には未だ少し早いような気がします。また官衙(かんが、官公庁のこと)にも休暇があったのは意外にも思われます。明治時代は学生も役人も特権階級だったのでしょう。

「小倉の袴」とあるのは、小倉織で仕立てた袴のこと。旧称小倉地方(現在の北九州市)の産であることから、一般的に「小倉」と呼ばれていました。

「襯衣」は、「シャツ」。「襯」の一字は「はだぎ」の意味です。

「紅塵堆裡」(こうじんたいり)は既にシリーズ(64)で取り上げました。そちらを参照して下さい。

100年前、東京に出て学校で学ぶことが出来たのは一部の人たち。才能以上に経済的に裕福であることが前提でした。帰省した学生たちを田舎の子等が羨望の眼差しで見るのは、当時の普通の情景だったでしょう。
帽子、襯衣、猿股などはハイカラで珍しかったことが偲ばれます。

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