強者弱者(139)
貧民窟の夏の夜
雨には何れもいひ合せたる様に足を劇場に運ぶ。各劇場とも盆狂言の興行賑々し。夜更けて劇場より貧しき我家にたどり行く少年あり。陋巷人なく、下水に異様の臭気あり。音楽と色彩と香料とに激しく興奮されたる若き心の、やがてはかなき現実の世に喚びさまされたる悲しみよ、交番の角燈に蚊のおびただしく群れつどひて哄と声をあげたる、白き制服の向側の暗に立てる、其傍に刑事と見えて労働者の姿に身を扮したるが何事をかヒソヒソと語れる、貧民窟の夏の夜、軒傾き壁破れたる我家のかど、寝もやらで待ちわびたる母の俤、奉公といふものゝ悲みはかゝる折にふれて長く長く忘る可くもあらず。
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何となく悲しみを誘う文章。華やかな芝居小屋と、侘しい下宿住まいの奉公暮らしの悲哀が滲み出いませんか。
「陋巷」は「ろうこう」。狭くて汚い巷(ちまた)、という意味です。
「哄と」は、「どっと」と読みます。笑い声などが一斉に興る様子を言いますが、漢字で書くことは珍しいかも知れません。
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