ムズカシイは おもしろい!!(2)

昨日の文化の日、上野の文化会館小ホールで始まった古典四重奏団の新シリーズ、“ムズカシイは おもしろい!!” の第2回目を聴いてきました。
穏やかな秋の陽射しが降注ぐ中、正に弦楽四重奏日和の午後です。

ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第11番ヘ短調作品95「セリオーソ」
ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第16番へ長調作品135
     ~休憩~
ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131
 古典四重奏団

前回レポートしたように、コンサート本番の前に1時間弱の実演付きレクチャーが開催されます。
第2回のレクチャー・プログラムは、「変容する“苦悩から歓喜へ”」。

レクチャーは、毎回恒例の前菜から始まり、デザートで締め括られます。今日の前菜はベートーヴェンの6つのパガテル作品126から第1楽章。

メインディッシュは、レクチャーの構成者・田崎瑞博氏から、ベートーヴェンの作品に度々モットーのように現れる「苦悩から歓喜へ」というテーゼがベートーヴェンの生涯そのものであったという解説がなされ、それがこの日演奏される3曲に如何に変容しながら扱われていったかが語られました。

即ち、第11番では「劇中劇型」、第16番は「自問自答型」、第14番が「ブリッジ型」 として。

第11番はタイトルのように真剣な音楽で構成されていますが、第4楽章の最後で全くそれまでとは違う明るい音楽で突然のように閉じられる。それは恰も映画を観賞して劇場を出ると、映画とは全く異なる現実世界に引き戻されるような感覚に似ている。
ベートーヴェンは、それまで描いてきた悲しみや苦しみを、まるで劇中劇の如く、最後のアレグロで全く別の世界へ連れて行ってしまうのです。

第16番の自問自答。承知のように、この作品では第4楽章に「そうでなくてはならないのか?」という問いかけがなされ、直ぐさま「そうでなくてはならない」という回答が提示される。
ベートーヴェンが最後に到達した境地は、古典に回帰した明るい世界。しかしそこには中期では用いなかったような和声が登場するのですが、それはレクチャーの最後に再び取り上げられます。

最後の第14番は、7つの楽章が通して演奏される難解な作品。しかし、これをブリッジ型に創られた「苦悩から歓喜へ」と解釈すれば理解が早まるというのが田崎説。
即ち、「橋」の中心を成す第4部は明るい変奏曲。普通の変奏曲では短調の部分が登場するものですが、この変奏曲はそれすらもない明るいもの。中心を挟む急速な部分(舞曲やブレスト)も長調の明るい音楽。
しかし全体の両端に置かれる第1部と第7部は、これとは正反対の厳しい音楽で縁取られている。これもまたベートーヴェン流の「苦悩から歓喜へ」の変容した一型である、と。

最後に、2番目に語られた16番の第3楽章に登場する独特な和声が取り上げられます。ここは単に短調の和声ではなく、長調の明るい和声も付加されている。
これを田崎氏は「受容の和声」と命名し、ベートーヴェンが経験した様々な哀しみや苦しみを克服すると同時に、それを受け入れる境地にまで到達したことの表れ、と解釈するのでした。

レクチャーの最後。デザートは、弦楽四重奏版(田崎編)のピアノ・ソナタ第31番作品110の第3楽章から。

そしてコンサート本番。

確か晴海で行われた前回のツィクルスでは、セリオーソの途中でヴィオラの弦が切れてしまい、この曲は一部不完全な演奏だった記憶があります。
今回はそうしたアクシデントもなく、私としては初めて第11番の完全演奏を耳にすることができました。

圧倒的に素晴らしかったのは、後半の第14番。レクチャーのお陰で全曲の構造が手に取るように判ったし、何より彼らがそのことを意識して演奏していることが伝わってくる名演。あっという間の40分でした。
当たり前のことかも知れませんが、“ベートーヴェンは凄い” というのが第一の感想です。

このレクチャー・コンサートもあとは最終回を残すのみですが、残念ながら私は所用のためパスせざるを得ません。
第3回がどんな内容になるか、知りたい方は自分でチケットを買って上野に出掛けてくださいな。ベートーヴェンの弦楽四重奏は難しい、などと敬遠するべからず。決して聴いて損の無いレクチャーであり、コンサートになることは間違いありませんヨ。

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