日本フィル・第627回東京定期演奏会
今年最初の日本フィル・東京定期を聴いてきました。
今年の冬は例年になく寒く、大寒真っ只中の昨夜は、恐らく寒さの底ではないかと思うほどの冷え込み。“春よ来い、早く来い” と思わず口ずさんでしまいたくなるようなプログラムを楽しみました。
それにしても寒いぞ~~。
ウイリアム・シューマン/アメリカ祝典序曲
ライヒ/管楽器、弦楽器とキーボードのためのヴァリエーション
~休憩~
ストラヴィンスキー/バレエ音楽「春の祭典」
指揮/シズオ・Z・クワハラ
コンサートマスター/木野雅之
フォアシュピーラー/江口有香
ソロ・チェロ/菊地知也
一言でいえば「初モノ」を味わう演奏会か。私にとっては、指揮者とライヒ作品が初体験でした。先ず指揮者から。
名前がカタカナ表記なので日系外国籍の方かと思いましたが、両親共に日本人。東京生まれながら10歳でアメリカに移住し、そのまま現地で音楽修行をしてきた若手だそうです。
渡米は音楽の勉強のためではなく、両親の仕事の関係から。純粋にアメリカで音楽教育を受けた由で、日本語より英語が先に出るタイプ。
1976年生まれですから、今年35歳、指揮者としては出発点に立ったばかりと言えましょう。日本フィルとは昨夏のミューザで共演していましたし、既に読響とも共演しているそうですが、私は初めて聴く・見る人です。
血統的には純粋な日本人なのに何故名前の間に「Z」が入るのか聞いてみたところ、アメリカでは「シズオ」が発音し難いので、早く覚えてもらうために敢えて「ズィー」を挟んだのだとか。
さて初めての指揮者なので、もう少しプロフィールを続けましょう。
とにかく背の高い人です。体格もガッシリしているし、存在感は充分ですね。こういう体躯を見ると、ついつい「氏より育ち」という言葉を思い出してしまいます。別に他意はありませんよ。
その指揮振りはいわゆる大振りで、両足を大きく開き、腕を激しく振り回してオケをコントロールします。指揮棒は使わず、暗譜せずにスコアを捲りながら振っていきます。尤も作品が作品なので、いわゆる名曲ではどうなのかは判りませんが。
今回のプログラムは、恐らくクワハラが最も得意とする作品を並べたのでしょう。自身の原点であろうアメリカの現代音楽と、勝負曲と思われる近代バレエ音楽。
その意味では、この選曲こそが指揮者クワハラの全てを表していると考えて良いのでしょう。
アメリカ作品が並び、アメリカで育った指揮者の登場ということもあり、この演奏会はアメリカ合衆国大使館が後援しています。単に「後援」という告示だけでなく、ふと二階席を見上げればルース米国大使夫妻も来場、最後まで熱心に拍手を贈っていました。
思い出したのは、先年オバマ大統領がサントリーホールで演説を行った時に華を添えたのは日本フィル・メンバーによる室内楽。もしかするとその縁があるのかも知れませんね。
音楽における日米関係と言えば、戦後最も積極的だったのは日本フィル。当時他のオケがほとんど目もくれなかったアメリカ作品、アメリカの音楽家を熱心に紹介してきたのが渡邉暁雄であり、その主兵・日フィルだったのです。
私が定期会員として通った1960年代は、ボストン交響楽団との交換楽員が共にアンサンブルに加わっていましたし、日フィルによって本邦初演されたアメリカ作品も相当数に上ります。
正にその一曲が、この夜冒頭に取り上げられたウイリアム・シューマンの華麗な序曲。世界初演はボストン響でしたし、日本初演は日本フィルでした。
子供の掛け合い(日本なら、さしずめジャンケンポンでしょうか、ね)から生まれたという冒頭の動機から始まる10分弱の音楽は、クワハラにとっても、日本フィルにとっても、来場されたルース大使にとっても、名刺代わりの一曲だったと申せましょう。
続くライヒ。この作曲家は弦楽四重奏で「ディファレント・トレインズ」を聴いたことがあるだけ。オーケストラ作品は初めての体験でした。
30年前にサンフランシスコで初演されたヴァリエーションは、実際にライヒが管弦楽のために書いた最初の作品だそうです。
題名の通り、舞台中央には三台のキーボード(シンセサイザーでしょうか)と二台のピアノが置かれ、増幅するためのマイクが何本もピアノの中に突っ込まれています。私の席からはよく見えませんでしたが、木管楽器も全てマイクで増幅されていたのだとか。
音楽は「ディファレント・トレインズ」そっくり。木管とキーボードが演奏する速いパターンのモチーフが延々と続き、弦楽器と金管は同じ音をゆったりと引っ張りながらフェード・イン、フェード・アウトを繰り返すだけ。
ただし指揮者は大忙しで、楽章毎に2・3・4・5・6・8拍子が目まぐるしく交替し、それを20分以上続けるというもの。出ないのは7拍子だけ。
音量が変化するでもなく、音楽に起承転結があるわけでもない。不思議な音響を絶え間なく聞かされている間に、聴き手の神経は麻痺し、人によっては心地良く感じられていくのでしょう。
私の感想では、これは阿片窟の音楽、無人島の音楽、とでもしておきましょう。
後で聞いて驚いたのですが、全体は3楽章構成なのだとか。何処にも楽章の切れ目なんかなかったゾ。
私はつい、ジョン・ケージの「4分33秒」を思い出してしまいました。あれも一切音を出さないのに3楽章で書いてある・・・。
後半はストラヴィンスキーの名曲。
このコンサート一回だけでクワハラを判断することはできませんが、とにかく「若いなぁ」という印象。エネルギッシュで、オーケストラを目一杯鳴らせる指揮は、却って痛快にすら感じました。
これ以上は無いというほどの大音響。「賢人の行列」や「大地の踊り」の最後など、轟音の余韻が渦を巻いて天井に昇っていくのが見えたほど。
大太鼓にしてもシンバルにしても銅鑼にしても、これだけ思い切り叩けば、さぞや春もビックリして目を覚ますでしょうな。
ただ、これでクラシックの本流である古典派やロマン派の音楽をどのように演奏するのか。疑問も感じる一方で、それは他の人に任せておけばよい、とも思いました。
フィラデルフィアで好評だというベートーヴェン交響曲ツィクルス、果たしてどんなものなのでしょうか。
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