小川典子企画ベートーヴェン+ Vol.3

昨日の首都圏は午前中から雪。東京に雪が降るということは、春が近いということでもあります。
今年の一月、都心の降水量はゼロ行進で空気はカラカラ。この雪は、その意味では恵みの雪でもありました。今冬はシッカリした寒さだっただけに、春の訪れは早いかも知れません。

ということで昨日の祝日、ミューザ川崎シンフォニーホール主催のリサイタルを聴いてきました。以下のもの。

≪小川典子企画ベートーヴェン+ Vol.3≫
菅野由弘/「虹の粒子」(ピアノと歌舞伎オルゴールのための)(世界初演)
     ~休憩~
ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第30番ホ長調 作品109
ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第31番変イ長調 作品110
ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第32番ハ短調 作品111
 ピアノ/小川典子

このホールのホールアドバイザーを務めている小川典子が企画したシリーズ「ベートーヴェン+」の三回目、最終回でもあります。一昨年の第一回については当ブログでも取り上げましたので、その意義等については繰り返しません。
演奏会のあり方を問い直す、という意味で最も注目すべき企画であるということだけは強調しておきましょう。実際、いろいろ考えさせられるリサイタルでした。

話は変わりますが、今年はフランツ・リストの生誕200年。リストの作品が聴かれる機会も増えているようですが、リストと言えばもう一つ注目すべき事実がありますね。
それは、それまでは歌手のための演奏会様式だった「リサイタル」を器楽の演奏会にも導入したことです。
厳密な意味では、リサイタルは二人以下の演奏者による演奏会を指す用語。リストの試みもやがて200年の積み重ねに到達しますが、この日の小川のリサイタルも、改めて音楽の聴き方を問い直す機会となったようです。それはおいおい触れるとして、

プログラムの前半は、このシリーズの目玉である「+」の部分。日本を強く意識する作曲家・菅野由弘に、小川と同ホールとが共同委嘱して生まれた新作の世界初演です。
前2作と合わせて三部作を構成するこの日の新作は、ピアノと歌舞伎オルゴールのために書かれた「虹の粒子」。三部作の全体は「ピアノの粒子」と名付けられ、これまで「南部鈴」「明珍火箸」と続いてきたピアノとのコラボレーションを、今回は「歌舞伎オルゴール」に委ねています。

あまり耳にしない歌舞伎オルゴールとは、伝統的に歌舞伎の下座音楽で用いられてきた楽器で、命名の由来は良く判らない由。
演奏に入る前に、小川・菅野両氏がプレトークの形で楽器や作品についての紹介がありました。

スタインウェイ・グランドの隅に乗せ、奏者自身が叩いて演奏するこの楽器は、所謂オルゴールとは全く別のもの。遠目で見る限りでは小型シンバル、即ちクロタル crotal を5つ並べて長方形の木箱に収納したもののようにも見えました。
もちろん5つはサイズが異なり、従って音程も違う涼やかな響きを立てるのです。これが菅野には「虹」を想起させるのだとか。
今回の作品では木枠の部分も叩く個所もありましたが、この日使われたのは菅野氏の結婚祝いに贈られた楽器だったそうです。

私は前回の「明珍火箸」を聴いていないので何とも言えませんが、今回のものは小川典子のピアニズムはもちろんのこと、ミューザの響きや舞台機能まで計算されて書かれた由。
解説の通り、シンフォニーホールとしては珍しい多様な照明効果をも駆使して、舞台上に虹を描き出す作品と聴きました。あくまでもミューザで演奏する小川のための作品と申せましょう。

プログラムの目安では12分ほど。小川の粒の立ったピアノ演奏を駆使して七色の音色変化を引き出し、時折「歌舞伎オルゴール」の澄んだ響きが虹を作り出す光を表現する。
最後は、オルゴールのグリッサンド(木枠も含めて)をピアノの共鳴が支える中に、東洋的な感性が減衰していくという内容でした。

これで三部作が完成したことになりますが、当然ながら三曲セットとしての再演が望まれます。(私は第二作を聴いていないので、余計そう思うのですが)
さしあたっては来年イギリス(マンチェスター?)での演奏が決まっているそうですが、作曲の経緯から考えればミューザでの再演を待ち望むのが筋でしょう。

後半はベートーヴェンの後期三大ソナタ。この3曲を同時に弾くのは、小川としても初めての試みだと聞きました。

ベートーヴェンのソナタ、特に最後の三曲を並べて弾くのは、ピアニストにとっては最高レヴェルの緊張とテクニックを強いるものでしょう。それは聴く方も同じ。
晩年のベートーヴェンは、当時未だ成長段階にあったピアノ・フォルテを「如何に歌わせるか」に専心していたのではないかと想像します。
小川典子も、この鉄の塊とも言える楽器から最大限の歌を引き出すことに全身全霊を傾けているように感じられました。

特に印象に残ったのは、「109」第3楽章の第6変奏。ベートーヴェンの新しさは、先ほど聴いたばかりの同時代の作品とも肩を並べるほどの斬新さであることに気付かされた点。
「110」の最後を飾るフーガは、同じベートーヴェンの大フーガ(弦楽四重奏)と双璧であると確信させてくれた点。
そして何と言っても「111」第2楽章の変奏曲。これこそバッハのゴールドベルクと並ぶ変奏曲の巨峰であることを証明して見せた点。

最後の最後、壮絶なトリルを終えてテーマの「ドーソソー」が響いた時、ここにも天高く虹が架かるのを見たのは私だけではないでしょう。

最後に余談を一つ。

当日配布されたプログラムを開いて真っ先に飛び込んできたのが、“休憩後の3曲は切れ目なく演奏されます。あらかじめご了承ください” のゴシック文字。
演奏前のプレトークでも触れられていたと思いますが、私はこれをベートーヴェンの後期ソナタを拍手を挟まず、通して演奏することと解釈しました。
上にも書きましたが、ベートーヴェンの後期ソナタはたとえ一曲だけでも、奏者はもちろん聴き手にも極度の緊張を強いるもの。小川のベートーヴェンにかける決意は、3曲の通し演奏という形に止まらず、これまでの音楽の聴き方に対する挑戦の意味合いをも表していたのではないでしょうか。

しかし実際は109の後にもいつもに変わらず拍手喝采が起こり、小川は答礼のあと一旦舞台を降りました。
私も躊躇いながら拍手に加わり、キツネに抓まれたような気持に襲われます。

それは続く110も同じ。あれほど見事なフーガを聴かされては、思わず拍手に走っても致し方ないでしょう。

しかしこれが小川の本意だったのか?

勝手な想像では、一曲目の後に拍手が起きてしまい、小川は咄嗟に頭を切り替えたのではないか。その決断の速さも、また彼女の特技。私も彼女に敬意を表し、いつも通りの「リサイタル」として演奏を讃えました。
彼女の真意はどうだったのか直接本人に聞いてみようかとも思いましたが、それは野暮というもの。

演奏家と聴衆の対話は演奏会の醍醐味でもありますが、奏者の意思が正しく客席に伝わるかについては、改めて難しいことだと実感したのも事実。
皆さんはどう思ったのでしょう。

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1件の返信

  1. カンタータ より:

    ベートーヴェンの3曲では、一曲ごとに袖に引き上げることが予め告知されていました。出来れば3曲通して、つまり袖に引き上げずに拍手なしで弾いて欲しかったけれど、聴衆の緊張が続かないと危惧しての措置でしょう。しかし休憩なしで後半を通してこの3曲を弾いたピアニストは、私は小川典子以外に知りません。

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