小川典子企画ベートーヴェン+ Vol.1
昨日の建国記念日、ミューザ川崎シンフォニーホールで行われたコンサートの報告です。
同ホールのアドバイザーを務めるピアニスト・小川典子が企画するシリーズで、以下の内容。
ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第8番ハ短調作品13「悲愴」
ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調作品27-2「月光」
~休憩~
菅野由弘/「光の粒子」~ピアノと南部鈴のための
ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第23番へ短調作品57「熱情」
見ればお解りの通り、悲愴・月光・熱情というベートーヴェン三大ソナタ集、聴きに行くのが恥ずかしくなるようなプログラムです。
しかしそれだけではないところが小川典子の真骨頂というべきで、それこそがこの演奏会の聴きどころなのです。
思えば小川は、丁度1年前に自らの演奏活動20周年を記念したリサイタルをサントリーホールで開催しました。
その時のプログラムは、リストとドビュッシーに加えて藤倉大の新曲初演を含んだもの。つまり、今回のプログラムと相似形に作られていたことに気が付きます。
私にとって小川のベートーヴェン・ソナタは、月光ソナタとワルドシュタインソナタ(これはテレビで)を聴いただけで、長く待ちわびていたもの。
今回はVol.1と謳っている様に、少なくとも3回は行われるであろうシリーズのスタートを飾るもの。小川にとって新たな一歩を踏み出そうとする意気込みを感じさせます。
去年のサントリーと今年のミューザ。これは如何にも象徴的です。
これまでの20年を得意にしてきたリストとドビュッシーでプログラミングし、会場にはサントリーホールを選択した。
対してこれからの20年?をスタートするに当たっては、オール・ベートーヴェンをミューザ川崎で開催する。
そしてどちらにも共通しているのが、同時代の作曲家、それも同国人日本の作品を初演という形で紹介する。
この姿勢こそ、私が彼女を尊敬しつつ賞賛し続けてきた根拠でもあります。
演奏家たるもの、過去の名曲だけに捉われず、常に新しい視野を持ち、同時代の音楽と共に歩むべきではないか。
この日に世界初演された菅野作品は、小川自身とミューザ川崎シンフォニーホールが共同委嘱した作品。
初演が終了した後で作曲家と小川がトーク形式で語っていたように、強く日本を意識した作品なのです。
“この川崎から、世界に向けて音楽を発信したい”という小川の信条。
タイトルにもあるように、これはピアノと南部鈴とのコラボレーションです。奏者には、ピアノの他に鈴を鳴らす作業も要求されます。譜捲りも自分でしなければなりません。
(近日中に京都でも演奏されるそうですから、関西方面の音楽ファンは是非聴かれるように)
照明も作品の一部であるかのように、最初は極限にまで光を落としたステージからスタートします。
凡そ12分、舞台は再び照明が落とされ、遂には完全な闇に。その中でも鈴の「リン」とした響きが暗黒のホールに漂う。
菅野と小川が日本を意識したと言うのは、南部鈴を使ったという点にだけあるのではありません。
西洋音楽が主旋律と対旋律という構造から出来ているのに対し、この作品は複数の旋律線が対等に扱われます。鍵盤を走る手が4本あっても5本あっても足りないほどに。
これは西洋のイディオムとは全く異なるもの。東洋的な発想に支配された世界であり、鈴とピアノは対等の立場で共存していくのでした。
“この曲、物凄く難しいんですよ”と告白した小川でしたが、聴いている聴衆には難しそうには聴こえません。
先日別所で行われたトークの中で間宮芳生氏が語った、“難しい作品を難しそうに弾いているうちはダメです”という言葉に思い当たります。
演奏の難しい音楽を、そのようには聴こえないように演奏した。そのことが小川典子の実力を端的に物語っています。舞台上の菅野氏も納得された様子。
時代は21世紀。確実に文明の光は西洋から東洋に移りつつあります。芸術家はそれを肌で感じ、一般聴衆に暗示するが如く提示していくのです。
このコンサートは、そうした世界の潮流を見事に暗示させる午後でもありました。
小川のベートーヴェン。私は、冒頭の悲愴ソナタの和音の意味深い響きと、熱情ソナタでの堂々たる構築力とダイナミズムに最も惹かれました。
同ホールのアドバイザーを務めるピアニスト・小川典子が企画するシリーズで、以下の内容。
ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第8番ハ短調作品13「悲愴」
ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調作品27-2「月光」
~休憩~
菅野由弘/「光の粒子」~ピアノと南部鈴のための
ベートーヴェン/ピアノ・ソナタ第23番へ短調作品57「熱情」
見ればお解りの通り、悲愴・月光・熱情というベートーヴェン三大ソナタ集、聴きに行くのが恥ずかしくなるようなプログラムです。
しかしそれだけではないところが小川典子の真骨頂というべきで、それこそがこの演奏会の聴きどころなのです。
思えば小川は、丁度1年前に自らの演奏活動20周年を記念したリサイタルをサントリーホールで開催しました。
その時のプログラムは、リストとドビュッシーに加えて藤倉大の新曲初演を含んだもの。つまり、今回のプログラムと相似形に作られていたことに気が付きます。
私にとって小川のベートーヴェン・ソナタは、月光ソナタとワルドシュタインソナタ(これはテレビで)を聴いただけで、長く待ちわびていたもの。
今回はVol.1と謳っている様に、少なくとも3回は行われるであろうシリーズのスタートを飾るもの。小川にとって新たな一歩を踏み出そうとする意気込みを感じさせます。
去年のサントリーと今年のミューザ。これは如何にも象徴的です。
これまでの20年を得意にしてきたリストとドビュッシーでプログラミングし、会場にはサントリーホールを選択した。
対してこれからの20年?をスタートするに当たっては、オール・ベートーヴェンをミューザ川崎で開催する。
そしてどちらにも共通しているのが、同時代の作曲家、それも同国人日本の作品を初演という形で紹介する。
この姿勢こそ、私が彼女を尊敬しつつ賞賛し続けてきた根拠でもあります。
演奏家たるもの、過去の名曲だけに捉われず、常に新しい視野を持ち、同時代の音楽と共に歩むべきではないか。
この日に世界初演された菅野作品は、小川自身とミューザ川崎シンフォニーホールが共同委嘱した作品。
初演が終了した後で作曲家と小川がトーク形式で語っていたように、強く日本を意識した作品なのです。
“この川崎から、世界に向けて音楽を発信したい”という小川の信条。
タイトルにもあるように、これはピアノと南部鈴とのコラボレーションです。奏者には、ピアノの他に鈴を鳴らす作業も要求されます。譜捲りも自分でしなければなりません。
(近日中に京都でも演奏されるそうですから、関西方面の音楽ファンは是非聴かれるように)
照明も作品の一部であるかのように、最初は極限にまで光を落としたステージからスタートします。
凡そ12分、舞台は再び照明が落とされ、遂には完全な闇に。その中でも鈴の「リン」とした響きが暗黒のホールに漂う。
菅野と小川が日本を意識したと言うのは、南部鈴を使ったという点にだけあるのではありません。
西洋音楽が主旋律と対旋律という構造から出来ているのに対し、この作品は複数の旋律線が対等に扱われます。鍵盤を走る手が4本あっても5本あっても足りないほどに。
これは西洋のイディオムとは全く異なるもの。東洋的な発想に支配された世界であり、鈴とピアノは対等の立場で共存していくのでした。
“この曲、物凄く難しいんですよ”と告白した小川でしたが、聴いている聴衆には難しそうには聴こえません。
先日別所で行われたトークの中で間宮芳生氏が語った、“難しい作品を難しそうに弾いているうちはダメです”という言葉に思い当たります。
演奏の難しい音楽を、そのようには聴こえないように演奏した。そのことが小川典子の実力を端的に物語っています。舞台上の菅野氏も納得された様子。
時代は21世紀。確実に文明の光は西洋から東洋に移りつつあります。芸術家はそれを肌で感じ、一般聴衆に暗示するが如く提示していくのです。
このコンサートは、そうした世界の潮流を見事に暗示させる午後でもありました。
小川のベートーヴェン。私は、冒頭の悲愴ソナタの和音の意味深い響きと、熱情ソナタでの堂々たる構築力とダイナミズムに最も惹かれました。
最近のコメント