東京フィル・第805回定期演奏会

昨日に続いて演奏会通いです。7月というのに最近はコンサートが盛んで、私もオケを中心に今月は忙しくホールと自宅を往復する予定。暑さと節電の兼ね合いが難しい処ですね。何年も前に京都で買った扇子が手放せません。

昨日は東フィルの定期。私は未だ雰囲気に慣れませんが、サントリー・シリーズは5月は無かったものの7月は2回もあるという具合。月一回のペースにならないのは、流石にオペラのオケの特質でしょうか。
7月前半の定期は大阪フィルの音楽監督・大植英次、後半はドイツ在住の上岡敏之の登場、共に東フィル定期初とあって聴き逃せない7月定期です。昨日はその第一弾。

小倉朗/管弦楽のための舞踏組曲
モーツァルト/ピアノ協奏曲第27番変ロ長調K.595
     ~休憩~
ブラームス/交響曲第1番
 指揮/大植英次
 ピアノ/小曽根真
 コンサートマスター/三浦章宏

カリスマ系と言っても良い大植を聴くのは久しぶり。ナマで接したのはN響定期、読響定期、それにハノーファーのオケとの来日公演に続いて僅かに4回目だと記憶します。
N響では今回と同じブラームスの1番でしたが、こぢんまりとした中にもバランスの整った小気味よい演奏だったという印象が残っています。読響とは「英雄の生涯」で、実に恰幅の良いシュトラウス。ハノーファーとは曲目すら記憶に残っていません(ワーグナーのオペラだったような?)。

舞台を見ると、コントラバスが左手(下手)にズラリ。“あ、対抗配置なんだ” と咄嗟に思います。この前がどうだったか、ブログ開設以前のことなので確認のしようもありません。
オケの中に集音用のマイクが林立しているのも目を惹きます。プログラムで確認すると、後日NHK/FMで放送される由。次の上岡の会も放送予定だそうで、東フィル定期はFM放送されることが慣例になっているようですね。先月の三ツ橋もそうでしたっけ。

颯爽、というか思わせぶりに登場した大植。髪をピタリと横に撫で付け、襟の高い燕尾を来ているので、風貌は失礼ながら暴走族のリーダー風。カリスマを意識しているのでしょうか。

最初に演奏された小倉は、今シーズンの東フィルが通しテーマに設定している(らしい)日本の作曲家による作品。小倉は大植の桐朋学園時代の師、東フィル100周年シリーズに選ぶには最適な作品だったのでしょう。
大植は暗譜主義のようで、ブラームスに限らずこの現代作品も、協奏曲の伴奏をも全て暗譜で振っていました。私は必ずしも暗譜に価値を見出しませんが、彼の振り方を見ると、思い切り腕を奏者に向けて振り下ろしたりするので、譜面台が邪魔になるという物理的制約を感ずるのかも知れません。要するに極めて派手なアクション。

全体は明確に区切られた4楽章、15分強の作品です。第2楽章の開始でメンバーが“ヤッ”という掛け声を掛けるのが面白い所で、オープニングから大植/東フィルの元気なパフォーマンスが目立ちます。
ところでこの曲が音楽の友社からスコアの形で出版されていることを、つい最近知りました。大植はこの(恐らく)手書きスコアをコンマスの譜面台に置き、演奏終了後に楽譜を客席向かってに高々と掲げ、師へのオマージュにしていました。如何にも大植らしいパフォーマンス。

続いては問題の協奏曲。舞台係がセットしたピアノは「YAHAHA」のコンサート・グランド。ヤマハを使うのを見るのは、個人的には多分アンドレ・ワッツ以来のこと。ソロを弾く小曽根はヤマハ・アーティストなのでしょうか。
小曽根を聴くのは初めてじゃありませんが、この前が何処で、曲が何だったは思い出せません。いずれにしてもジャズから入った人だけに、いわゆる普通のクラシックとは異なる演奏をすることは判っていました。
ですから、彼が極普通の燕尾服で登場した時には些か期待をはぐらかされた感じすらしたものです。

しかし演奏そのものは、小曽根らしい捻ったもの。楽章を追うにつれて、彼のインプロヴィゼーションというか、遊びは次第にエスカレートしていきます。通常のカデンツァ(多分自作でしょう)はもちろん、第3楽章の最初のカデンツァ(130小節から)でもモーツァルト時代のピアノの音域を遥かに超える即興。
オーケストラのメンバーも楽しそうにソリストの気合を窺いながら、合奏に加わるのでした。

そのオーケストラも変わっています。テュッティは普通ですが、ピアノとの対話が弱音になると、弦楽器パートは首席のソロだけ。時にはピアノ五重奏、あるときはコントラバス・ソロも加えたピアノ六重奏に徹底していました。第2楽章の103小節からは、まるでヴァイオリン・ソナタに変えられるのです。

プログラムにはカデンツァについて「モーツァルト作の楽譜も残されているが、演奏者が独自に弾くことも、もちろんOKだ」 という記述がありましたし、この曲に対して良く言われる「晩年の孤独」「死の予感」についても「事をあまり文学化しすぎるのは禁物であろう」と釘も刺していました。
恐らく小曽根の演奏スタイルを考慮しての曲目解説でしょうが、この夜は「晩年の孤独」とは全く正反対の印象を与える演奏になっていました。要するに遊びに満ち、生の喜びを謳歌するような音楽。

客席の反応はどうだったと言うと、それはもう大絶賛。ホールの至る所からブラヴォ~の歓声が掛かっていました。もちろんオールド・ファンには拍手を拒否する人もありましたが、それは少数派のようでした。
このところ感ずることが多いのですが、明らかに聴き手の嗜好はより軽いもの、より感覚的なものに比重が移っているようです。このモーツァルトの受け入れられ方も、そうした傾向の表れなのでしょう。私個人は是是非非と言っておきましょうか。面白いけれど感動はしない。認めるけれど、いつもじゃ困る。

小曽根はピアノに向かってもガッツ・ポーズ、“ピアノよ、お前が功労者だ” と言わんばかり。大植は小曽根の手を引いて舞台に戻り、ピアノ椅子のチリを払う仕草でアンコールを誘い出します。
弾かれたのは、どうやらジャズの一品。私は自作なのかな、と思いましたが、ホワイエに掲げられた案内板には Bill Evans / Waltz for Debby とありました。コマーシャルにも使われているジャズのスタンダードだそうな。

メインのブラームス、プログラムの前半が「遊び」に満ちていた分、後半は堂々たるクラシック。前半では顔を顰めていたファンも、最後は大きな拍手を贈っていました。

冒頭の出だし。ティンパニよりも先にコントラバスが響く感触は、大昔に東フィルが若杉弘の指揮でマイスタージンガーを上演した時に聴いた懐かしい響き。N響や読響以上にバスへヴィーな音色は、東フィルの特色でもあります。しかし何時の間に明るい音色に変じていくのもオペラ・オケたる東フィルのDNAでしょう。

大植のブラームスは、かつてN響で聴いたとき以上にスケール感が増していたようです。ま、当然でしょうが。
彼は「ここぞ」という時にほんの僅かながらテンポが落ちる傾向があって、それが一層表現に重量感を加えているようにも思われました。コンサートが終了したのは9時を20分以上過ぎていましたからね。

前半と後半の好対照、大植英次の颯爽としたカリスマ性が目立った演奏会です。

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