東京フィル・第845回定期演奏会
昨日は雛祭り、特に個人的な祝い事も無いので、サントリーホールに出掛けて東フィルの定期を聴いてきました。
ところで東フィルは3シーズンほど定期会員を続けてきましたが、来シーズンは会員を降りることに。理由はいろいろありますが、次期8回のサントリー定期に登場する指揮者の中に首席のエッティンガーの名前が無かったこともその一つ。個人的にはエッティンガーが聴けるというのが東フィルの魅力ではありました。
3月定期は、そのエッティンガーが振るロシア物。私にとっては最後の定期でもあります。プログラムは以下のもの。
ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第3番
~休憩~
チャイコフスキー/交響曲第4番
指揮/ダン・エッティンガー
ピアノ/アレクサンダー・コルサンティア
コンサートマスター/三浦章宏
来季東フィルの3種の定期シリーズを見ても、エッティンガーが出るのはオーチャード・シリーズの来年2月マーラーのみ。何か意図があるのでしょうか、そろそろ体制の刷新と言う暗示なのでしょうか。
この3月、マエストロはチャイコフスキーの後期3大交響曲を纏めて振ります。即ち既に終了したオーチャードでは第5を、来る5日の東京オペラシティでは第6を取り上げ、組み合わせはいずれもラフマニノフのピアノ協奏曲という布陣。サントリーは3連発の中日に当たっていました。
前半のラフマニノフを弾いたコルサンティアというピアニストは、私はその名前も初めて聞いた人。プログラム誌によると、グルジアのトリビシ出身とあります。グルジアと言えばロシアとの微妙な関係もあり、そのラフマニノフ演奏は奇縁でもありましょう。
コルサンティアの先生の一人はグルジアの名手アレクサンダー・トラーゼで、ファースト・ネームが同じというのは偶然でしょうか。「ロシア人」というアイデンティティーで1988年のシドニー・コンクールで優勝し、1995年にはテル・アヴィヴで行われたアルトゥール・ルービンシュタイン・コンクールにも優勝。現在はアメリカのボストン在住というプロフィールです。
アメリカと言えば「グルジア」という国名はロシア読みで、当の政府は「ジョージア」という英語読みを正式な呼び名として各所に申請しているという話を聞いたことがあります。音楽とは関係の無い話題ですが、3月3日はグルジアでは何かの祝日に当たっていたんじゃなかったかしら。
さて本題のラフマニノフ、これはもう流石というか堂々たるピアニズムを開陳してくれました。
第1楽章のカデンツァに2種類あることはご存知でしょうが、コルサンティアはより難度の高いオッシア(別稿)版を弾きます。第3協奏曲はラフマニノフ自身が4か所のカットを施して録音していますが、今回の演奏はノーカット。現在でも短いカット(特に第3楽章)を敢行する習慣の残る作品ですが、昨日は所謂完全演奏で聴くことが出来ました。
イスラエルとの因縁浅からぬコルサンティア、何度も共演しているイスラエルの指揮者エッティンガーとの息もピタリと合い、スリリングな演奏を満喫。
事の序にカデンツァについて記憶をたどると、ラフマニノフ本人の録音はオリジナル版だったし、この協奏曲を世に広めたホロヴィッツも確かオリジナル版だったはず。最初からオッシアに挑戦していたのはギーゼキングくらいだったでしょう。アシュケナージは何度も録音していて、確か最初のテイクはオリジナル、後年はオッシアを弾いていたと記憶します。
現在でも比率で言えばオリジナルの方が多いのじゃないでしょうか。素晴らしかったベレゾフスキーはオリジナル、小川典子はオッシアでしたっけ。
客席はアンコールを要求せんばかりの喝采でしたが、コルサンティアは鍵盤の蓋を静かに下ろして幕。作品の長さから見ても協奏曲1曲で十分満足のいく内容だったと思慮します。
後半のチャイコフスキー。これはエッティンガーのやりたい放題という印象で、最近では珍しい強烈な個性で押し切った演奏と言えるでしょう。
テンポの伸び縮みが一々指摘し切れないほど頻繁で、ダイナミックスもかなり誇張されたもの。突然のブレーキや、それを取り戻すようなアクセルの踏込。一昔前の個性的マエストロの表現を髣髴とさせるような第4交響曲でした。
終楽章のコーダなど普通はイン・テンポで一気に追い込む場面ですが、エッティンガーはここにもギア・ダウンを取り入れ、最後の最後の3段ギア・アップをより効果的に炸裂させます。
こうしたテンポの変化は決して気紛れではなく、それなりの理屈があるので聴き手が納得してしまうのがエッティンガーの長所と言えそう。例えば第1楽章提示部終結(練習記号Fの7小節目から)、ティンパニに乗って両ヴァイオリン(エッティンガーは対抗配置)が弾く pp の2小節で、2小節目は1小節目より音を更に弱くする。そう言えばラフマニノフ冒頭の最初の2小節でも、2小節目は最初の小節より音量を落としていましたね。
スコアにそんな指示はありませんが、マエストロはここを「強弱」を付けて演奏させます。対照的な表現である「強弱」は「主副」「表裏」「剛柔」「往復」などにも通じ、言わば人間の呼吸そのもの。昔風の演奏では、同じフレーズを繰り返すときは、最初は強く、繰り返しはやや弱くという暗黙のルールがある、ということを音楽鑑賞の先輩に教わったことを思い出しました。
第4楽章の民謡を引用したという副次主題(第10小節目以降)。これも同じフレーズを2度繰り返すことで構成されていますが、エッティンガー/東フィルは明瞭に区別せずとも「表裏」の意識で弾く。木管の問いかけと弦の速いパッセージが繰り返される次の場面も同じで、何処かに「主副」という心持が感じられるのでした。
同じことを繰り返すとき、楽譜に指示が無くても最初と繰り返しでは表情に変化を持たせるものだ、という自然な流れを、エッティンガーは忠実に守っているのかも知れません。現代の演奏は、楽譜に書いて無いことはやらない、という清潔な姿勢が行き過ぎているようにも感じられます。
ということで、個人的には最後の東フィル定期をエッティンガーで楽しみました。こうした判り易い表現で名曲を聴く体験は、不思議なことに現在では少なくなっているようにも感じられます。来年2月のマーラー、1回券を買って聴きに行こうかな、苦手なオーチャードホールだけど・・・。
最近のコメント