日本フィル・第634回東京定期

昨日の金曜日、久し振りにサントリーホールでオーケストラ演奏を聴いてきました。このところ演奏会から遠ざかっているようで、日記を辿ってみると、管弦楽に接するのは先月の12日以来。
クラシック音楽への関心が薄れたわけではないのですが、敢えて一回券を買ってまで聴きたいという強い欲求が減退してきているのは事実だと思います。
それでも懐かしいサントリーホール、音楽はナマで聴いてこそ素晴らしいということに改めてき気付かせてくれた日フィルの10月定期は以下のもの。

シューベルト/交響曲第3番
ブラームス/ヴァイオリン協奏曲
     ~休憩~
R.シュトラウス/「町人貴族」組曲
 指揮/広上淳一
 ヴァイオリン/ボリス・ベルキン
 ピアノ/野田清隆
 コンサートマスター/江口有香
 ソロ・チェロ/菊地知也

私の一押し指揮者・広上の振るドイツ音楽ですが、如何にも彼らしい玄人好みの選曲です。ブラームスは扨て置き、シューベルトもシュトラウスも演奏機会の決して多くない作品が取り上げられました。
この3曲、ドイツ音楽とは言いながらコテコテのドイツ魂で塗り固められたモノではないところが共通点。即ちシューベルトはイタリア風、ブラームスがハンガリー色、シュトラウスにはフレンチ・タッチが鏤められているのが、独特の味わいを醸し出します。

冒頭のシューベルト、その第1音から広上の小気味よいブリオが炸裂します。この曲はクラシック初心者だった中学生の頃、クーペリック/ウィーンフィルのLPで繰り返し聴いてきた大好きな曲。ナマで初めて接したのは、広上の師である外山雄三の指揮するN響定期でした。
恐らくそれ以来のナマ演奏体験でしたが、広上は、そのハイドンに近い若書きシューベルトの瑞々しさを隅々まで引き出します。特に三部形式で書かれた第2楽章(ハイドンの「女王」交響曲を連想させませんか)が圧巻。中間部のテンポを少し速め、音楽が「活き活きと」踊り出すのでした。
これほど音楽の楽しさを実感させてくれるシューベルトは、恐らく初体験でしょう。

続くブラームスの名曲。ベルキンと広上は長年に亘って信頼関係を築いてきた間柄、ソロとオーケストラはほぼ完璧に合奏を創り上げました。
ベルキンが御する楽器はストラディヴァリでもグァルネリでもなく、知名度の薄いボローニャのR.レガッツィ作。それでもこの名手が弾くと、如何にもブラームスに相応しい堂々たる音量でホールに鳴り渡ります。この楽器が自身の音楽性に最も合致していることを、ベルキン自身の耳が本能的に悟っているとしか思えません。

広上/日フィルのバックも、単なる伴奏の域を超えて遥かにシンフォニックなもの。僅かなアクセント、微妙な息遣いにも血が通っていることが、私のような凡な耳にも痛いほど伝わってきます。

メインはシュトラウス。広上は日フィルの7月定期でも「ばらの騎士」組曲を取り上げましたが、今回は打って変った室内楽。編成はスコアの指定通りで、弦の編成はヴァイオリン6、ヴィオラ4、チェロ4、コントラバス2という徹底した小編成でした。
楽器の配置はリハーサルの中で変更されたとかで、中央にピアノ、ハープとティンパニが舞台左に据えられ、指揮者をグルリと囲みます。

「町人貴族」組曲は、マトモに演奏されれば実に素晴らしい作品です。元ネタがモリエールの戯曲とリュリの音楽だけに、音楽は洗練と気品の極み。これに上質なユーモアが絡むのですから、この日のように優れた演奏で聴くと、正に至福の時と言えましょう。
実は2年ほど前に読響(秋山和慶)で聴いたのですが、あれとは雲泥の差。アンサンブル、特に江口コンマスと菊地ソロ・チェロがシュトラウスの哀しい程に美しい世界を音にしてくれました。

傑作なのは、フィナーレ(第9曲)の「宴会」。ここは料理人たちの行進に始まり、様々な料理が供されます。
最初は“ラインの鮭”。弦楽器にワーグナーの「ラインの黄金」から波のモチーフが借用され、オーボエが食に供される鮭の悲哀を歌います。
続いては“羊の脚のイタリア風”。管楽器に作曲者自身の「ドン・キホーテ」から羊の描写場面が登場し、チェロのソロが喰われ行く羊のメランコリーを切々と訴えていくのです。
最後は“ツグミとヒバリの小皿”(って、どんな料理? 焼き鳥風なんでしょうか)。これまたシュトラウスの「ばらの騎士」から冒頭の鳥の鳴き声が引用され、オーボエが二度、ヴェルディの「リゴレット」から「女心の歌」の冒頭をパクります(*)。
全曲の最後は“オムレツのサプライズ”。オケ全体でも40名弱の大合奏が、マエストロ広上のワルツの乗って大団円を迎えます。

こうして聴いてくると、作品を構成する9曲全てが洒落た料理の一品であるように感じられてくるから不思議。フランス料理というよりは飲茶の世界でしょうか。フルート協奏曲風あり、ピアノ協奏曲もどき、ヴァイオリン協奏曲味もあるという具合。
どれも美味かったなァ~。

終了後、マエストロは楽員一人一人と固い握手。地味なプログラムに決して多いとは言えない客席からも大きな歓声が飛びます。
尚、今回の広上、タクトを持って登場しましたが、棒は指揮台に置いたまま。全3曲を全て無棒で通しました。

(*)リゴレットについて。
私はこの曲が好きで、手元にあるCDはクラウス、ケンぺ、マルケヴィッチ、ライナー、サヴァリッシュ、マゼール、テイトと7種も。しかしどの盤の解説も「リゴレット」には触れていません。今回のプログラム誌の解説(広瀬大介氏)にも指摘は見当たりませんでした。(読響の解説はもっと酷いもので、料理や引用についても一切触れていなかったと記憶します)

でも、何故シュトラウスは「女心の歌」を摘まみ食いしたのでしょうか。ここからは想像でしかありませんが、ばらの騎士にはイタリアのテノール歌手が登場します。テノール歌手の象徴と言えばこの歌。それを聴き手に連想させたかったのか。
はてまた、料理にはワインが付きもの。「女心の歌」の歌詞にはこれに類した内容は出てきませんが、何となく「酒と女」のイメージから使ったのかも。
更には、料理に使われるヒバリ Lark には「歌手」という意味も存在しますね。捻りに捻って、ヒバリ=歌手=テノール=リゴレット? まさかね。

いずれにしても、以前ようにマエストロ・サロンがあれば、これは絶好の話題だったはず。この謎はもう少し探ってみる必要がありそうです。実に味わい深い「町人貴族」ではありますな。

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