ムズカシイはおもしろい!! バルトーク編(2)

このところ演奏会に出掛ける回数がメッキリ減ってきたようにも感じられますが、何故か11月は大忙しです。
その中核を成すのが弦楽四重奏のコンサート。11月だけで5団体を6回の演奏会で味わう予定になっています。個人的には「弦楽四重奏月間」というワケ。

その第一弾が昨日の上野・東京文化会館小ホール。9月25日に第一回を聴いたバルトーク・チクルスの二回目です。以下の内容。

レクチャー“晩年のバルトーク”
     ~休憩~
バルトーク/弦楽四重奏曲第4番
バルトーク/弦楽四重奏曲第5番
     ~休憩~
バルトーク/弦楽四重奏曲第6番
 古典四重奏団

コンサートの本編は18時45分からですが、例によって演奏前にレクチャーが行われます。少し早目に家を出て、開場時間の18時15分に上野着。

文化会館の建物に入ると、ホールまでの緩やかなスロープの壁面に演奏家の写真がズラリと並べられています。小ホールのロビーにはずっと大きなパネル写真も。
そう、東京文化会館は今年が開館50周年に当たり、フェスティヴァルとしていくつかの記念コンサートも企画されているようです。当夜の公演もフェスティヴァルの協力公演に指定されていて、前回と同じプログラム誌にもその旨のシールが貼られていました。

パネル写真は懐かしいものばかり。ほとんどは来日演奏家のものですが、私もほぼ半世紀の演奏会通いの多くをここで体験してきました。チケットを買わなくてもパネル写真は閲覧できますから、上野に出掛けた際にでも立ち寄ってみては如何? 最近の新しいホールでは聴けなかった巨匠たちのスナップを見ることが出来ます。

さて本題のバルトーク。前回に引き続き、中身の濃いレクチャーと、極めて緻密、かつ自由自在なバルトーク演奏を満喫できました。今の日本における、クラシック音楽のレヴェルの高さを実感できる何とも頼もしいコンサートです。

演奏のコンセプト等については第一回で感じたことと同じ。西洋クラシック音楽の「聖」に対し、東洋音楽の「俗」を明確に意識したもの。もちろん優劣ではなく、文明の対比という視点から論ずべきものです。
レクチャーで田崎氏が指摘した、第5番の最後で突然登場してくるモーツァルトを連想させる音楽。モーツァルトこそ「人工的」に創られてきた西洋クラシックの理論を象徴するものなのです。

この解説に、私は思わずシタリと膝を叩いてしまいました。私は、常日頃モーツァルトの音楽には「自然」の要素が全く欠けていることが気になっていました。同時代のハイドンでさえオラトリオ「四季」の中に、ベートーヴェンも田園交響曲を例にとるまでもなく、各所に「自然」讃歌と思われる音楽が顔を出すのです。
ところがモーツァルトには、あの膨大な手紙を読んでも(全部読んだわけではありませんが)、「自然」に関する興味は全く感じられません。強いて言えば魔笛にいくつか動物が登場するだけでしょう。それも音楽で表現しているわけじゃない。

モーツァルトは西洋人の自然観を代表するチャンピオンでしょう。自然は「克服」し、「征服」する対象でしかない。整備された都会こそ「美」なのだと。
それに対し東洋人は、基本的には自然を「尊敬」し、「共生」する。バルトークは、東洋人の代表として作品にその自然観を織り込みました。

恐らく西洋人にとっては、バルトークはムズカシイのでしょう。しかし二回に亘る古典四重奏団のバルトークを聴いていると、バルトークはタノシイし、オモシロイ!!
そこには作品への真実の共感があり、愉悦感に満ち、音楽が自由自在に発想を膨らませて行く様を体験することが出来るのでした。

私がクラシック音楽に興味を持ち始めた頃、レコード芸術誌は“バルトークの弦楽四重奏曲はどう聴くべきか?” とか、“バルトークは将来も生き残るか?” という特集記事が何度も組まれていました。
今から思えば、当時の頭デッカチな評論家諸氏が、西洋人の音楽感をそのまま直訳し、音楽を体で聴かず、頭でのみ理解しようとしていたことの証左だったようにも思われます。

あれから半世紀、日本のクラシック音楽界はバルトークを易々と理解し、より大きな視野に立って人間と音楽との係わりを探るまでに進化してきました。その感慨も、二晩のバルトーク・チクルスで得た大きな収穫でしたね。

宇宙人・田崎瑞博の遊び心は、この週末に第一生命ホールで更に飛躍します。謎の作曲家ターサ=キンスキー(田崎ンスキー?)のラズモズクスキー弦楽四重奏曲の世界初演、これはもう聴いて、笑うっきゃないでしょ。

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