東京シティ・フィル第261回定期演奏会

残暑が一向に熄まない中、昨日は私にとって9月最初の演奏会に出掛けてきました。初台の東京オペラシティコンサートホールです。夏の間ナマの音楽を聴く機会が無かったわけではありませんが、感想を日記に認めるのは8月の蓼科以来のこと。オケに至っては7月20日の京都が最後でしたっけ。
若干のリハビリが必要でしたが、直ぐに昔の感覚を取り戻します。今回はやや捻って東京シティ・フィルの定期。これは絶対に聴き逃せません。

モーツァルト/交響曲第31番
モーツァルト/フルートとハープのための協奏曲
     ~休憩~
ハイドン/交響曲第102番
 指揮/広上淳一
 独奏/高木綾子(フルート)、吉野直子(ハープ)
 コンサートマスター/戸澤哲夫

特に目新しいプログラムではありませんが、広上のハイドンとモーツァルトと言えば、私の中では最高の贅沢に挙げられるもの。初体験ではありませんが、どれも懐かしい思い出が詰まっています。
モーツァルトが「パリ」で作曲した2曲と、ハイドンが「ロンドン」で書いた傑作。当時の音楽大都市の饗宴、というのも隠されたテーマのようにも感じられましょう。

冒頭のパリ交響曲。私に今でも強烈な記憶として蘇ってくるのは、広上が1993年6月の日本フィル定期で演奏した時のこと。この時は今回と同じようにパリ交響曲で幕を開け、そのあとギル・シャハムのソロでヴァイオリン協奏曲の3番、最後がジュピター交響曲というオール・モーツァルト・プログラムでした。
そもそもサントリーホールのような大きな空間ではモーツァルトは楽しめない、というのが私のそれまでの実感でしたが、広上はその概念を根底から覆して見せましたね。
兎に角音楽が生き生きしていること、強烈な個性でスコアの隅々からモーツァルトを掬い上げていく眼光。当時はこの指揮者について才能ある若手、という印象しか持ち合わせていませんでしたが、このモーツァルトには腰を抜かしました。完全に打ちのめされた感じ。

その後もこの交響曲は何処かで聴いた記憶がありますが、広上のモーツァルトに勝るものはありません。もちろん今回は20年近く経ていますから、広上の音楽も当時とは趣が変わっています。しかし相変わらずなのは、モーツァルトのブリオが見事に捉えられていること。
特に演奏会場がサントリーのような広い空間ではないことで、モーツァルトの書いた細部の音の動きが手に取るように伝わってきます。特に第2楽章(8分の6拍子による第1稿)の深々とした呼吸が暖かく、マエストロの円熟を実感できる瞬間でした。

続く協奏曲は私の大好きな作品。もちろんハ長調の哀しさが魅力ですが、私にとっては高校時代の忘れられない記憶と繋がる一品。冒頭の付点音符のキッチリとしたリズム感を聴くと同時に、我が精神は半世紀も遡ってしまうのでした。
高木・吉野の名コンビはこの作品にはピッタリ。個人的には第1楽章の第2主題(特に再現部で)に思い切ったデフォルメを期待したいところですが、それは青春時代の思い出として取っておくことにしましょう。
珍しくも全楽章にあるカデンツァも有名なもの(誰の作曲でしょうか)、マエストロも楽譜を見、オケにあと2小節、1小節とキューを出しながらコーダに突入していました。

独奏者二人によるアンコールもありました。この組み合わせのアンコールとしては定番のイベール(間奏曲)。オリジナルはフルートとギターだったと記憶しますが、この二重奏にアレンジしたのは誰なのでしょうか。いずれ調べてみたいと思います。

後半はハイドン。ニックネームの無い作品ですが、私はハイドンのシンフォニーで一つだけ選べと言われれば躊躇うことなくこれにします。それも広上と日本フィルの定期(1997年7月)で知ってからのことで、この時はシューマンの第2などのプログラムの冒頭に置かれていました。
今回はコンサートを締め括るメインとしての登場。このホールに相応しい、このオケの緻密なアンサンブルに適した選曲により、改めてこの交響曲に主役としてのスポットを当てた見事な演奏でしたね。

特に驚いたのは、第2楽章コーダでトランペットの低い「ド」の音がフォルテで響くこと。帰宅して改めてスコアを捲ってしまいましたが、ハイドンが仕掛けたサプライズがこんなところにも秘められていたのです。まるで別世界で鳴っているようなトランペットの信号。これほど明瞭に響かせた指揮者を他に知りません。

更には第3楽章。ここはもうメヌエットではなく、完全なスケルツォとして演奏されていました(スコアはメヌエットですが)。そして主部の最後、第50小節の3拍目から始まる ff のフレーズに対し、これを繰り返す52小節目の和音の音量を、聴感的には fff に上げるような解釈にも度肝を抜かれます。
マエストロも最初は両手を広げ、2度目は更に大きく誇張してオケに指示を出す。私の見ている譜面にそんな指示はありませんから、これは広上淳一の表現、意思と見て良いでしょう。何とも「読み」の深い表現に舌を巻きます。

そしてフィナーレは圧巻。変幻自在というか、縦横無尽というか、譜読みは一音たりとも曖昧にせず、切れば真っ赤な血が噴き出すようなブリオに時を忘れるのでした。

今回が10年振りのシティ・フィル登場となる広上マエストロ、プログラムに挟まれたメッセージの中で「大音響はいらない」「無理をすることなく自然体で演奏」と語り、真に緻密なアンサンブルを実現していました。オケのメンバーのドヤ~顔が目に浮かぶよう。
希望を言えば、次は10年も間を空けず、今回のような古典派作品による王道プログラムで共演して欲しいもの。今回のようなプログラムで聴き手を納得させることこそ、プロフェッショナルの仕事と言えるのではないでしょうか。

結論。
広上のハイドンは何を措いても聴くべし。それが102番の交響曲ならば、親が死んでも駆け付けるべし。

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