読売日響・第518回定期演奏会

9月も残り1週間になって漸く読響の定期演奏会が行われました。暫く聴いていなかったような錯覚に捉われます。50周年に当たる今シーズン、9月は前常任指揮者スクロヴァチェフスキ登場に期待が高まります。

ウェーバー/歌劇「魔弾の射手」序曲
スクロヴァチェフスキ/クラリネット協奏曲
     ~休憩~
ワーグナー(ヘンク・デ・フリーヘル編)/楽劇「トリスタンとイゾルデ」“オーケストラル・パッション”
 指揮/スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ
 クラリネット/リチャード・ストルツマン
 コンサートマスター/小森谷巧

会場に入ると、正面オルガンの左右に「読響50年」を記念する一対の豪華な垂れ幕が掲げられています。来年3月までは毎回会場を飾るのでしょうか。深緑色の布地は、下種な私には如何にも金がかかっていそうな印象を与えました。
先日某所で友人に、“○○なオケは聴かない”と言われた言葉がグサリと胸に突き刺さります。

今回のプログラムで最も気になるのは、やはり後半のワーグナー。もちろん楽劇そのものは知っていますが、オランダ発の「管弦楽版」は初めて接するもの。聴き応えや如何に。
曲目解説から引用すると、編曲者はオランダ放送フィルの打楽器奏者で、この種の試みは「ニーベルングの指輪」「パルシファル」に続く3作目の由。そう言えば「ニーベルングの指輪」は以前にエド・デ・ワールトと読響が紹介していたような記憶があります。私は聴きませんでしたが、マゼール版と並べて話題になっていたと思います。

更に解説を続けると、トリスタンにはストコフスキーによる「シンフォニック・シンセシス」と銘打たれたスコアも存在するそうで、普通に演奏会で取り上げられる「前奏曲と愛の死」意外にも様々な試みがあることに気が付きます。そう言えば今年のプロムスでメナとBBCフィルが演奏した前奏曲は、通常のものとはエンディングが異なっていましたっけ。
連想を膨らませれば、私が子供の頃には確か「歌の無いオペラ」というLPシリーズが出ていて、いくつかのプッチーニの歌劇などもカタログに乗っていたことを思い出しました。あの試みはその後どうなったのでしょうか。日本でも歌劇そのものが頻繁に観られるようになって、無理に管弦楽だけで紹介する必要は無くなってきたのかも知れません。

そんなことをツラツラ考えながら聴いていましたが、全体はほぼ1時間の長丁場で、初めと終わりは有名な「前奏曲」と「愛の死」で縁取られます。間は順に、第2幕への前奏曲と第1場の音楽による「イゾルデの愛の渇望」、全体の中心部でもある「夜の歌」、第3幕への前奏曲から「トリスタンの見た幻影」「再会」と進み、最後の「愛の死」で閉じられます。
もちろん唯場面をストーリーに準じて並べるだけではなく、提示・展開・再現の手法で交響楽的な衣装も纏わせるという構成でしょう。なるほど「夜の歌」が切迫する場面と「愛の死」には共通したページが登場し、編曲者の意図する再現の構図も見えてきました。
この版は1994年に完成、1995年4月にオランダでレコーディングされ、2002年5月にベルリンで演奏会初演されたそうな。

今回が日本初演と思われますが(プログラムには明記なし)、スクロヴァチェフスキは前奏曲と愛の死は暗譜で、他はスコアを確認しながら振っていました。
その所為もあるかも知れませんが、私には期待したほど面白くなかった、というのが正直な感想。トリスタンを聴くなら、これまで頻繁に演奏されてきた「前奏曲と愛の死」ヴァージョンで十分だと感じましたし、他のページは楽劇全曲で体験するべきでは、と。60分は如何にも長いし、冒頭と終結以外は演奏のレヴェルもやや集中力を欠いていたように感じられました。
唯これはたった一度の経験、時間芸術の音楽には慣れも必要です。幸いにも前日に行われた名曲シリーズの模様がテレビ収録されたそうですから、いずれ放映された際にはスコアをチェックしながら聴いてみましょう。感想が変わるかも知れません。

プログラム前半の最後で演奏されたのは、マエストロ自作の日本初演。前日に同じサントリーホールで演奏されていますから、正確には再演と言うことでしょうか。私は録音を含めて初体験でしたが、当夜のソリストであるストルツマンとの録音もある由。
レンタルながら譜面もショット社から出版されているようで、以下のサイトには今回の演奏会も予定として紹介されていました。↓

http://www.schott-music.com/shop/persons/az/17858

ストルツマンも今年古希を迎える大ヴェテランですが、スクロヴァ翁から見れば息子の年代。登場するなりストルツマンがマエストロに深々と最敬礼する姿に会場も沸きます。

作品は極めて明確、実に判り易い3楽章で構成。オケにはオーボエが含まれないのが特徴で、多彩な打楽器が並ぶものの響きそのものは室内楽的。クラリネットの節約した表現は、寧ろ尺八などの東洋的な嗜好も感じられました。もちろん語法は完全にヨーロッパの伝統的スタイルです。
第2楽章は明らかに「夜の音楽」で、中間部では「歌」にまで発展しないながらもメロディックな素材が顔を出します。第2楽章から第3楽章へは間髪を入れず、ソロが“コケコッコ―”を連想させるようなフレーズで開始を告げ、一瞬ワルツが民謡を連想させる場面も。最後は唐突且つユーモラスに終わり、客席もソリストも盛大に作曲家を讃えました。

さてこの日最大の驚愕は、冒頭に演奏されたウェーバーでしょう。歌劇の序曲は、よくコンサートに遅れてきた客のための時間待ちと言われますが、今回ばかりは私にとっては正にメインディッシュでしたね。
「外見こそ寄る年波を感じさせるものの、出てくる音楽はますます若い」と評されるマエストロ、それでもテンポが以前よりは遅くなったと感じられる序奏のあと、主部に入ると極めて幅広いダイナミックスを築いてシンフォニックな序曲が進みます。まるでシンフォニーの一楽章。
ややガサ着いたアンサンブルが、また味わい深いもの。今年のプロムスでウィーン・フィルがアンコールとして演奏したヨハン・シュトラウス、あの崩れ加減はこの日のウェーバーにも共通するもので、改めて音楽の奥深さを確認します。

そして驚愕の終結。何と最後の2小節に飛び込む直前、ハ長調の和音からチェロだけが取り残され、このパートだけが音を二分音符で切らずに全音符で引っ張るのでした。スクロヴァ氏もチェロに向かって強い指示を出していましたから、確信犯です。
早速帰ってスコアを確認しましたが、手元のオイレンブルク版にそのような指定はありません。ベーレンライターが新校訂譜でも出したのかと思ってネットをクグッて見ましたが、そんなサイトにも出くわしません。

世に音楽評論家と呼ばれる先生方、どうかマエストロにこの変更について質問して下さいな。スクロヴァチェフスキ独自の解釈なのか、何か歴史的な根拠があるのか。
絵画の世界では、名画をレントゲン撮影した結果、完成品では抹消されてしまった下絵が見つかったという話題を目にすることがありましょう。翁は、それこそウェーバーの手稿にレントゲンを当てたのではないか。それほどに私にとっては衝撃の前座でした。いや訂正、今回のメインでした。

実は、この日はいきなり魔弾が私に命中し、その後の曲目は半分ほどしか耳に入ってこなかったのです。たとえポピュラー小品と雖も心の準備を整えて臨まないと衝撃が大きすぎるという、スクロヴァチェフスキの面目躍如たる定期でした。

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