日本フィル・第646回東京定期演奏会

これはチョッと感想を纏め難い演奏会ですが、記憶のために何点か書き残しておきましょう。全くの初体験となる指揮者の登場です。

アダムス/主席は踊る~オーケストラのためのフォックス・トロット(オペラ≪中国のニクソン≫より)
ブリテン/シンフォニア・ダ・レクイエム
     ~休憩~
チャイコフスキー/交響曲第4番
 指揮/マイケル・フランシス
 コンサートマスター/扇谷泰朋
 フォアシュピーラー/江口有香
 ソロ・チェロ/菊池智也

先ず指揮者のプロフィールについては、例えば下記ジャパンアーツのホームページなどを見て下さい。プログラムによれば、飛ぶ鳥を落とす勢いの新星。

http://www.japanarts.co.jp/artist/artist_detail.php?id=51

昨今の情報の常で生年月日等は明らかにされていませんが、2003年にコントラバス奏者としてロンドン交響楽団に入団した由。風貌から見ても未だ30代でしょう。
今回が初来日ではなく、2010年にアンネ=ゾフィー・ムターの御付として東京交響楽団を指揮。その折、偶々アイスランドの火山噴火の影響で来日できなかった指揮者の代役として東京シティ・フィルに客演。この時の演奏が日本フィルの耳にも止まったようです。
多くの高名指揮者が歩んできたように、フランシスも代役のチャンスを掴んで伸し上がってきた逸材と言えるでしょう。日本でも同じようにデビューしたのが面白い所。

フランシスについての私的な印象は後で纏めるとして、先ず前半の曲目から。
冒頭のアダムスは、歌劇「ニクソン・イン・チャイナ」の抜粋でも一場面でもなく、最終的には採用されなかったシーンのために書いた音楽をそのまま独立作品に転用したもの。歌劇の最終稿には毛沢東の踊りは出てきません。
それでも、出だしを聴いただけで「ニクソン・イン・チャイナ」の様々な場面が思い浮かべられる程にアダムス色が濃厚。好き嫌いは別にして、作曲者のアイデンティティーの強さは認めざるを得ません。

頭のヴィオラが刻むリズムが繰り返されるうちに微妙に変化し、何時の間にか美しい?メロディーへと受け継がれていく。再びリズムが息を吹き返し、クライマックス(のようなもの)を経て、最後は紙ヤスリのシャカシャカ音に集約されて消えて行く、という構成。
ここではフランシスの指揮もジャブの段階、手際良くアダムス作品を紹介してくれたようです。

続くブリテン。日本の皇紀2600年を記念して委嘱された作品ですが、最終的にはこの機会には演奏されなかったもの。理由については二種類の説があるようで、日フィルのポッド・キャストでも話題になっていました。通説では題名が祝典には不適切だったからとされていますが、実際は完成が遅れてパート譜が準備できなかったからとも。今や真相は闇の中のようです。

皇紀2600年記念演奏会については余り知られていないようなので、この機会に書き残しておくと、
委嘱されたのはブリテンの他に4人、ドイツのリヒャルト・シュトラウス(祝典音楽)、イタリアのピツェッティ(交響曲イ調)、フランスのイベール(祝典序曲)、ハンガリーのヴェレシュ(シンフォニア)。1940年12月7・8・14・15日の4日間、歌舞伎座で初演されています。オーケストラは新響(現N響)、中央交響楽団、東京放送管、東京音楽学校などの混成オケ(紀元2600年奉祝交響楽団)が新しく組織されたそうな。同じプログラムは26・27日にも大阪歌舞伎座で再演されました。
面白いのは指揮者の陣容で、演奏順に最初のイベールを山田耕筰、続いてヴェレシュを橋本国彦が振り、ピツェッティはガエタノ・コメリが、最後にシュトラウスをヘルムート・フェルマーが指揮したこと。「NHK交響楽団40年史」には当時の写真が掲載されていますが、舞台下手にコントラバスが一列に12人並ぶ大編成。時局に沿った戦意高揚の宣伝も手伝ったのでしょうが、動員された鶴見・総持寺の梵鐘12個も大いに評判になった、とあります。結果的には選に漏れたブリテン作品が、現在では最も世界的に認知されているのが皮肉にも感じられましょう。

ということで、シンフォニア・ダ・レクイエムは度々聴くチャンスに恵まれます。現に私も去年のプロムスでBBC響の演奏に接したばかり。
今回のフランシスによる演奏は、強音と弱音の音量差を思い切り強調し、第2楽章のテンポも演奏可能の極限を要求したもの。その結果3楽章の構成、ラクリモーザ→ディエス・イレ→レクイエム・エテルナムが、不安→戦い→鎮魂に通ずるようでもあり、指揮者の自己主張が極めて明確な演奏になっていました。時にディエス・イレでは指揮者とオケが激しいバトルを展開、手に汗握るスリリングなシーンが現出します。

因みに現在普通に演奏される同曲は、オリジナルの第3楽章を後にブリテンが改訂したもの。フランシスはブージー&ホークス社の普及版を使用していましたから、改訂版による演奏だったと思われます。(日本に送られたオリジナル版は、後にサイモン・ラトルが初演したはず)
ブリテンの指示ではホルンの5番と6番、アルト・サックス、2台目のハープがアド・リブ(使っても使わなくても可)となっていますが、フランシスはサックスを使用、ホルンは4本、ハープは1台で演奏していました。現実的な処置でしょう。

最後はチャイコフスキー。真にスリリングな演奏でした。
ブリテンとも共通するように、強弱の落差が極端で、テンポがやたらに速い。崩壊のギリギリ手前で踏み止まっているような印象で、感じたスリルの主因はここにあります。
それでいながらフランシスが要求するのは、どんなパッセージにも抑揚を強調するアーティキュレーション。譜面には記載が無くても、微妙な情感の起伏が付せられていくのでした。その意味で、第2楽章が出色の出来。

ただ、フランシスはコントラバス奏者からいきなり指揮者デビューしたようで、バトン・テクニックがかなり稚拙。基本を素通りして感性だけが先走っているような印象を与えます。
従って第1楽章は見難いこと見難いこと。オケからのブーイングが聞こえてきそう。逆に言えば、よくあの棒で大した破綻も無く纏められたと、オーケストラの技術に感嘆しましたネ。流石にプロフェッショナル。

ここで思い出したのは、先日の日生劇場フィガロのプログラムに掲載されていた広上淳一の話。
彼によれば指揮者にはタイプがあって、「(聴き手は)厨房の中で怒鳴りあっているコック同士からできあがったものだろうが、にこやかにいたわり合ってつくってもらったお皿だろうが、旨けりゃいいわけで、それは気にしなくていい」のだけれども、自分は平和的に行きたいタイプ、と述べています。
恐らくフランシスは広上とは逆のタイプ。若いと言えばそれまでですが、厨房での確執よりも結果が出ればOK、過程は気にしない気にしない、ということでしょう。

サンフランシスコにしてもノールショピングにしても、この新星は一度の登場で再登場やポストを獲得したようですが、日本フィルではどうでしょうか。面白い演奏を作り出す才能に長け、一見デヴィッド・キャメロン風のイケメン指揮者ではありますが、その将来には期待と不安が同居していると感じました。
20年後、30年後のフランシスの成長を見てみたい気持ちはヤマヤマですが、こちらの寿命はその前に尽きてしまいますからナ。評価は若い聴き手に任せることにしましょう。

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