読売日響・第521回定期演奏会
今年最後の読響定期は、同団の名誉客演指揮者の冠を戴く尾高マエストロの登場です。曲目は第9、と言ってもベートーヴェンに非ずマーラーですが。
マーラー/交響曲第9番
指揮/尾高忠明
コンサートマスター/藤原浜雄(ゲスト)
フォアシュピーラー/鈴木理恵子
この演奏会が終わると年末恒例の「第9」怒涛の6回公演を迎える読響の12月、その前に定期会員には試練が待ち構えていました。尤もマーラー好きには堪えられないでしょうが・・・。
ところで今期の読響は、このあと3月の閉会まで大作が轡を並べます。マーラーは5番と6番が控え、ブルックナーも第5、と。流石重量路線をモットーとする読響だけのことはありますが、必ずしもマーラー・ファンでもない小生には気が重くなる月々になりそう。その手始めが昨夜でした。
ということで、感想はほとんどありません。マーラーの最後の交響曲(完成された作品、という意味で)は、最近ではある事柄のけじめに取り上げられることが多いようで、読響でも前々任のアルブレヒトの退任記念として演奏されたことを思い出しました。
その時も感慨こそありましたが、圧倒的な感動には至らなかった記憶があります。思うに原因は演奏の密度故ではなく、この作品に対する私自身の理解不足にあるのでしょう。今回も想いは同じ。演奏に関心はしても、感動を得たかと言うと、NO と答えずにはいられません。
正直なところ、私の中でマーラーは徐々に遠ざかっていく作曲家。特に第9交響曲は良く判りません。マーラーもブルックナーと同じように、第9の最後の緩徐楽章で自作を回顧します。ブルックナーが前作第7と第8の一節だったのに対し、マーラーは「亡き子を偲ぶ歌」(3回登場し、特に最後の弱音が暗示的)。
これ、どういう意味があるのでしょうか? 超私的な自叙伝とも取れるし、研究者によっては普遍的な価値を持つとも評されます。私にはマーラーの意図が未だに測りかねるのです。
今回の演奏では、第2楽章にオペレッタの匂いを感じます。シュトラウスやレハールは、マーラーにとって如何なる存在だったのか。彼特有のパロディーが籠められていると想像は出来るのですが、答えを探っているうちに演奏は終了してしまうのでした。
尾高忠明は、前回の定期ではブルックナーの第8交響曲を取り上げ、それは見事な演奏でしたが、今回のマーラーはあの時ほどの説得力が無かったように感じられました。マーラー特有の不道徳感が不足しているようにも思われます。マーラーよりはブルックナーにより適した音楽家なのかも知れません。
当夜のコンサートマスターは、先日同職を退任した藤原浜雄氏。藤原/鈴木のコンビを久し振りに味わいました。終演後の沈黙は極端に長くならず、重苦しい雰囲気にはならず一安心。
カーテンコールの喝采は相変わらずでしたが、遠目に聴衆同士のトラブルがあった様子なのが残念でした。
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