読売日響・第507回名曲シリーズ

昨日は何とも気乗りのしない気分の中、以下のコンサートを聴いてきました。歯の治療のし過ぎで出来た口内炎が痛くて、人と口を利く気がしないのです。
ベートーヴェン/「エグモント」序曲
ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15
     ~休憩~
ドヴォルザーク/交響曲第8番ト長調作品88
 指揮/ヴィクトーア・エマニュエル・フォン・モンテトン
 ピアノ/高橋礼恵(たかはし・のりえ)
 コンサートマスター/藤原浜雄
 フォアシュピーラー/鈴木理恵子
読響の名曲シリーズは中々に凝った曲目が並び、聴く方は定期の一つという心構えが必要なプログラムが多いのが最近の傾向。そんな中で今回はこのシリーズの原点に戻った(と思われる)曲目です。そのせいでしょうか、初物にも拘わらず客席はよく埋まっていました。8割は入っていたように思います。
小型ながらカメラも設置されていて、記録でも残すのでしょうかね。
ホールに入ると不思議な光景。コントラバスが舞台奥に6台ズラリと並べられています。ウィーンフィルのニューイヤーコンサートなどで見かける配置です。ここでも嫌な予感がしました。この若い指揮者の自己主張でしょうか。
出てきたメンバー、やはり並びは対抗配置でした。左から第1ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、第2ヴァイオリンの順。ホルンは左奥でいつもと同じですが、トランペットが反対側の右奥。ティンパニも右側に据えられています。
(後半のドヴォルザークではトロンボーンとチューバも右奥で、左のホルンとステレオ効果満点に吹き捲くるのでした)
更に、出てきた木管楽器の数が多い。そう、最近では珍しくなった倍管による演奏なのです。エグモントのフィナーレでは2本のピッコロが盛大に吹いていましたから。
これは協奏曲でも同じ。従って、フルートは二人で演奏します。
ところが不思議なことに後半のドヴォルザークでは、管楽器の人数はオリジナル通り2管。弦の構成はいわゆる14型で、プログラム全てこれで通すのです。?????
プログラム誌によれば、今日の指揮者はピアノの神童としてスタートし、早々と指揮者のキャリアを積み、ドイツ期待の若き逸材とか。
私には、このコンサートだけで指揮者を評価できる能力はありません。だから細かいことには触れません、が、これは感心しなかった。ドイツってこんな人しかいないのでしょうか。
オーケストラの配置から予想してピリオド系を目指しているのか、と思いましたが、全く普通のスタイルでした。今日の曲目を聴いている限り、何のためにベートーヴェンだけ倍管で演奏したのか理解できません。その効果も、私の貧しい耳には微塵も伝わってきませんでした。
読売日響は相変わらずパワフルに演奏を繰り広げましたが、ここでは煩いばかり。ドヴォルザークの後半など「グラツィオーソ」は何処にも無く、力任せの轟音が耳を痛めつける。
どんな名器でも、操る人に感性が欠けていれば、ただの騒音と化すばかり。
協奏曲を弾いた高橋礼恵、この人には好感を持ちました。ベートーヴェンの様式を守り、端正な音楽性が聴き取れましたから。今後に大いに期待したい人。
第1楽章のカデンツァはベートーヴェン自作の一番大きいもの。これも音に粒が立ってとても良かった。
プログラムの前半と後半にアンコールがありました。しかも同じ曲。ブラームスのハンガリー舞曲第5番です。前半はソリストと指揮者の連弾。
オーケストラ版ブラームスの品格の無いこと。客席は大喝采。
ドヴォルザークの第8。私がこの曲で聴きたいのは自然への賛歌です。モンテトンのは、コンクリートで固められ、高層ビルが林立する醜い都会の姿。これこそ美しい、という人も多いでしょうが。
この日改めて感じたのは、オーケストラはいくら性能が良くとも、指揮者の存在こそ第一だ、ということ。モンテトンはドイツ版○○。
ということで、益々不機嫌になって帰ってきました。

 

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