読売日響・第524回定期演奏会

春を通り越して早くも夏、という馬鹿陽気の中、サントリーホールで読響の3月定期を聴いてきました。ヒルズ横の桜坂の桜も早や2分から3分咲きの状態。自然界の気紛れには驚かされることばかりです。

去年の12月をスタートとした読響重厚長大交響曲路線、マーラーの第9を聴き終えた時にはこれからどうなるかと頭を抱えましたが、先月のモーツァルト風ブルックナーに続き、今月のカンブルランによるマーラー怪演によって大いに救われた気持ちです。
いゃあ~予想外というか、何とも痛快なマーラーでしたね。以下の内容。

マーラー/交響曲第6番
 指揮/シルヴァン・カンブルラン
 コンサートマスター/ダニエル・ゲーデ(ゲスト)
 フォアシュピーラー/小森谷巧

私の中でカンブルランはフランス物、現代モノの大家という位置付けで、マーラーは意外な感を持っていました。大地の歌は定期では取り上げなかったので、マエストロのマーラーは確か10番のアダージョと3番の短い楽章をブリテンがアレンジしたものを聴いただけ。どれも斜に構えた選択で、本格的なシンフォニーは初体解です。どうなるんだろう?

読響の集客力は相変わらずで、チケットの半券をもぎる列に並んでホールに入ると、先ずフラワースタンドが目に入ります。
新しいコンサートマスター、ダニエル・ゲーデをお祝いしたもので、どうやら今回が初仕事の様子。改めて情報を確認すると、正式な就任はこの4月だそうで、今回はゲスト。プログラムにもそう書かれていました。
私は失礼ながら知りませんでしたが、彼のウィーン・フィルのコンマスを務めた方だそうで、ハンブルク生まれの由。お馴染みだったデヴィッド・ノーランが5月に退任するということで、その後任と考えて良いのでしょう。
新コンマスのスタイルでしょうか、最初のチューニングが今までは若干違っていました。管と弦のチューニングを個別にやるのですね。私が知っているのでは、東京シティ・フィルと同じやり方です。あるいは今回のみ、カンブルランの指示なのか。

メンバー入場、いつもとは楽器の配置が異なることに目が行きます。ヴァイオリンを左右に振り分ける対抗配置なのですが、良くあるパターンでもありません。即ち、指揮者の左手からファースト、ヴィオラ、チェロ、セカンドの順。コントラバスは通常の舞台上手奥に並びます。
2組使用されるティンパニも、思い切って左右に離す配置。指揮者の右、上手に置かれているのが第1ティンパニで、主席の岡田全弘が叩きます。ハープ2台は並べて下手の奥。
この左右を明確に意識させる配置、聴き進むうちにハッキリしてきましたが、カンブルランの意図する音楽創りに見事にマッチしていました。改めてスコアを見直したほど、この曲にはファーストとセカンドの呼応が多いのですね。

そして空間のようになった中央奥。ここに終楽章でハンマーが登場するのです。恰も作品の核である様なハンマーの扱いは、視覚的にも絶大な効果を挙げていました。

もう一つ、カンブルラン独自の視点。それは第2楽章と第3楽章の配列で、マエストロはアンダンテ→スケルツォの順を採用していました。この中間楽章はマーラー自身も決めかねていたそうですが、旧マーラー全集(カーント社版)ではスケルツォ→アンダンテの順に印刷され、練習番号も通されています。
私が知っている録音もほとんどがこの形で、カンブルランと同じ順序は、去年のプロムスでシャイイー/ゲヴァントハウスが採用しているのを聴いたことがあります。
このことはプログラムには明記されておらず、曲目解説を良く読んでみると今回の順序が判るだけ。指揮者の視点を含めて結構面白い話題だと思慮しますが、オケ側からの情報提供としてはやや不親切ではないでしょうか。全く気が付かずに帰宅した人もいたのじゃないか。

詮索序に書き足すと、例のハンマー打撃は通例と同じ2回でした。私は密かに3回目を期待したのですが、カンブルラン御大はそこまでは踏み込みませんでしたね。
もう一つ大詰めで打ち鳴らされるシンバル。練習番号161の3小節前の fff ですが、マーラーの指示は mehere Becken 。即ち複数のシンバルが指定されていますが、今回は3対で鳴らされました。ま、これも伝統的な処置でしょうか。

ということで半信半疑で聴いたカンブルランのマーラー、結論を言えば透明で緻密、マーラー解釈に新たなページを加えた名演だったと言えましょう。
第6交響曲は「悲劇的」というタイトルで知られていますし、今回のプログラムにも明記されていました。しかしこのタイトルはマーラー自身が付けたものではなく、同時代の聴き手が後にマーラーを襲った悲劇への暗示として後で勝手に名付けたもの。
カンブルラン自身はこの曲にマーラーの葛藤を聴いているようですが、彼の透明で明快な演奏に接していると、皮肉なことに「喜劇的」にすら感じられてくるのでした。

第6交響曲は、マーラーの全交響曲の中では最も古典的なもの。特に第1楽章は提示部を繰り返す(もちろん実行しました)など、古典派交響曲のソナタ形式に沿って書かれています。
しかしソナタ形式はマーラーが苦手としたもので、このシンフォニー全体が一種のパロディーになっているのではないか。特にスケルツォとフィナーレは第1楽章の変奏、言い換えればパロディーそのもので、カンブルランの表情が真面目になればなるほど作品のパロディー感が浮き上がってくるのでした。
その意味でも、アンダンテ楽章とスケルツォ楽章とが特に秀逸。何となく楽員の演奏する表情も楽しそうではありませんか。スケルツォを例に引けば、練習番号81からの弦のコル・レーニョ、金管のゲシュトプフ、追い打ちを掛けるようなシロフォンによる骸骨の触れ合う音。これがパロディーで無くしてなんでしょう。

オーケストラも名人芸の極致。今回は16日の芸劇マチネー、前日のサントリー名曲に続く3回目の本番ということで、アンサンブルも更に磨かれていたと想像されます。素人耳には疲労が溜まっているのではと思われるスケジュールですが、読響の4番バッター揃いの猛者たちにはメリットでしかないようです。
カンブルランがオケに持ち込もうとしているラテン的な感覚。これもジワリと効果を発揮しています。本来のパワーに透明な色彩感が加われば鬼に金棒。そんな手応えを感じた定期でした。

首席指揮者としての契約も延長されたカンブルラン。今回の演奏によってマーラーに新たな風を取り込むマエストロであることが明らかになりました。
これからもマーラー・シリーズを続けましょう。是非とも定期演奏会で・・・。

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