日本フィル・第650回東京定期演奏会

日本フィルの5月は何事にも拘る高関健の指揮、しかも交響曲の中でも傑作中の傑作2本を並べた巨匠級のプログラムです。
ロシアとフィンランドの指揮者に率いられる日本フィルにとって、ドイツ音楽を正統的に取り上げる指揮者を渇望しているのが現状。果たして高関がその重責を担えるか、というのも興味の一点でしょう。

モーツァルト/交響曲第41番
     ~休憩~
ベートーヴェン/交響曲第3番
 指揮/高関健
 コンサートマスター/扇谷泰朋
 フォアシュピーラー/江口有香
 ソロ・チェロ/菊池知也

このプログラムは一見すると名曲コンサートのようにも見えますが、東京の、しかも定期での曲目となれば指揮者にとっては怖~い作品。一つ間違えればそのキャリアに傷がつくという危険も孕みます。
それを意識したか否かは想像の域を出ませんが、高関の事前準備は相当なものだったようで、この演奏会のためにパート譜を全て自分で準備した由。その辺りの経緯は自身の Twitter で呟いていましたから、見た人は見たでしょう、って当たり前か。

結論から言えば、指揮者の意図を拒否せずに真摯に取り組んだオケ側の理解にも助けられ、演奏は成功だったと思います。
事前に宣言されていたように、チェロやコントラバスを舞台下手に並べた対抗配置。特にエロイカでは、現在でも時に使用されている譜面の改竄を一切廃した完全な原典主義。とは言いながら、古楽器使用はもちろん、その奏法も用いない現実的な解釈に徹していました。

特に驚かされたのは、繰り返しの完全実行。これはモーツァルトに顕著で、第3楽章メヌエットではトリオの後で繰り返される主部でも反復記号を忠実に守ったほど。もちろん第4楽章後半のリピートも省略しません。
オーケストラとしては慣例から外れたもので、高関は二度にわたって左手人差し指を頭に当ててオケに合図を送っていました。一箇所は2度目のメヌエット前半を繰り返す際、もう一つは第4楽章後半の反復直前。即ち、“頭に戻るのを忘れないでくださぁ~い”というサインですね。まるで野球の監督みたい。
そうそう、第4楽章前半のリピートでは、左手人差し指を1本立ててもいましたっけ。これは“もう一丁、お願いしまぁす”という信号でしょう。

こうした慣例破りはリハーサルでも徹底していたようで、アンサンブルはいつもにも増して緻密そのもの。金管を含めて管楽器の出入りも指揮者の意図を明確に実現し、真に整理が行き届いたジュピターになっていました。
聴き手にとっても反復完全実行は緊張感を要求されるもので、改めてスコアを頭に思い浮かべたほど。こういう演奏を聴いていればボケる心配はなさそう。

エロイカも傾向は全く同じ。第1楽章の3拍子を三つに振るのが「普通」な中、彼は1小節を一つに振るのを原則とします。もちろんヘミオラの個所は三つに振って混乱を避けていましたが、カラヤン/ベルリンとは違いますからね。
第1楽章の繰り返しを実行しても、テンポがかなり速いため、作品の長さは感じさせません。第1楽章展開部のヤマ場、弦の和音進行(練習記号I)も溜めは一切無し、寧ろぶっきら棒な印象すら与えます。

この辺りが、聴く人によって好き嫌いを生ずるところ。新鮮に感じられる耳もあれば、もっと堂々たる音楽を欲する耳もあるでしょう。
かつて飯守泰次郎がベーレンライター版演奏で示した第3楽章を5部形式として演奏したり、下野がフィナーレの変奏で弦をソロで弾かせたり、と言った過剰反応は無し。ここにも高関の「らしさ」が垣間見えました。

演奏後ある人から“高関は指揮者というより学者だからね”と言われましたが、それで思い当たったのがヘルマン・シェルヘン。帰宅してからシェルヘンのウェストミンスター盤をチョッと齧ってみましたが、高関とそっくりなエロイカでした。
高関は日本のシェルヘン、と評したらいい過ぎか。そんな感想も抱いた演奏会でした。

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