東京フィル・第82回東京オペラシティ定期演奏会

真夏がぶり返したような蒸し暑さの中、昨日は初台で東フィルを聴いてきました。私は東フィルのサントリー会員ですが、今回のオペラシティ定期は内容から見ても、話題性から言っても聴いておかねばならないコンサートだと判断、一回券をゲットして出掛けました。
楽器編成の大きさ、様々な打楽器群に加えてオルガンや合唱も加わることから、今回は2階席正面を選びます。ステージが高いため1階では舞台上の配置などが見難い同ホール、これは正解でした。特に「記念」とは銘打っていない以下のプログラム。

ヘンツェ/ピアノ協奏曲第1番
     ~休憩~
ヘンツェ/交響曲第9番
 指揮/沼尻竜典
 ピアノ/小菅優
 合唱/東京混声合唱団(合唱指揮/松井慶太)
 コンサートマスター/荒井英治

そう、ヘンツェはほぼ1年前に亡くなったドイツを代表する作曲家で、60年代は別にして、これまで私は遠ざかっていた人。これを機にまた聴き直そうと考えている同時代の音楽です。
これに先立って、未だ梅雨の最中(7月17日)に赤坂見附のドイツ文化センターで「ヘンツェを語る」という催しがあり、それにも参加してモチベーションを高めてきました。もちろんショットから2曲のスコアも取り寄せ、NMLでの予習も重ねています。
もちろん当演奏会は東京ドイツ文化センターが後援するもので、10月の東フィル・プログラム誌はヘンツェ一色の趣。内容も向井大策氏の「ハンス=ヴェルナー・ヘンツェ、孤独に耐えるということ」、保坂一夫氏による「アンナ・ゼーガースと『第七の十字架』」という二つの特別寄稿を含め、永久保存の価値ある資料ともなっていました。

先の語る会では、特にヘンツェが同性愛者(ゲイ)であったという事実を知ったり、沼尻氏のヘンツェと武満徹の出会いの話などが大いなる収穫でした。また今回の出演者である小菅氏と荒井氏によるヘンツェの室内楽も中々の聴きものでしたっけ。
これらを参考に、ヘンツェ・プログラムに臨みます。

前半のピアノ協奏曲は、今回が日本初演となる貴重な機会。プログラムに掲載されたヘンツェ作品表によると、3曲あるピアノ協奏曲(三つ目は番号が無く、「トリスタン」と表題の付いたテープを伴う作品)ではトリスタンに次いで日本で演奏されるのは2曲目、あとは第2番のみということになるようです。
第1番は明瞭に区切られた3楽章から成る協奏曲で、夫々「アントレ」「パ・ド・ドゥ」「コーダ」のタイトル。協奏曲と言う絶対音楽作品ながら、バレエを連想させるタイトルを持つ所が如何にもヘンツェの個性です。
ヘンツェはオペラとバレエ、即ち舞台作品で独自のスタイルを築き成功した人。その裏にはゲイとしての側面も関係していたことを先の語る会で学びました。

この協奏曲、曲目解説(長木誠司氏)には触れられていませんでしたが、第1楽章中程(第50小節から)に書かれたカデンツァがあり、もちろんこのカデンツァが弾かれます。
全体のイメージは全く異なりますが、私は聴いていてチャイコフスキーの有名な第1番との共通点を感じました。特に第2楽章は中間部にヴィヴァ―チェを挟むゆったりした歌であること、第3楽章が3拍子を基本とするソロとオケの丁丁発止であることでしょう。
響きはモダーン、あるいは今やレトロな現代音楽でも、チャイコフスキーへのオマージュのように聴こえなくもない。おっと、チャイコフスキーも有名なゲイでしたっけね。チャイコフスキーの交響曲や協奏曲も、絶対音楽でありながら舞台作品の要素がたっぷり、それも共通点じゃないでしょうか。

後半の第9交響曲は、既に東フィルが日本初演しており、今回は2回目でしょうか。私が聴くのは初めてでした。「第9」ということで、ヘンツェがもう一つの「第9」を意識したことは間違いないでしょう。ベートーヴェン以来初めてとなる合唱付きの第9。
全体は7つの楽章で構成され、旧東ドイツの女流作家アンナ・ゼーガースの「第七の十字架」を基に、ハンス=ウルリッヒ・トライヒェルが編んだ詩をテキストにしたもの。全楽章に合唱が登場し、ベートーヴェンのように独唱は出てきません。

ゼーガースのストーリを詳しく紹介する余裕はありませんが、要するに7人の強制収容所からの7日間の脱走劇。楽章の数でもある「7」に意味があるのは当然と思います。脱走といえばアウシュヴィッツを連想しますが、ゼーガースが描いたのはユダヤ人に限らぬもので、脱走者には反ナチも親ナチも含まれている由。ゼーガース自身のナチス政権からの逃避行が経験になっているのは当然のこと。
折角ですから各楽章の概要を記しておくと、
第1楽章「逃走」は、追っ手から逃れる逃走者の姿を描いたもの。冒頭ティンパニと低弦のオスティナート・リズムは明らかに逃走と追跡を象徴するモチーフで、後の楽章にも登場します。“呼子が鳴る”という歌詞の後では実際に打楽器奏者が「警察の呼子」を吹くリアリズム。
第2楽章「死んだ仲間たち」は、捕えられ処刑された仲間や、途中で死んだ仲間たちを淡々と描く音楽。「風がおれの肌を引き裂く」という歌詞では、ソプラノとヴィブラフォンによる風の描写。
第3楽章「追跡者たちの報告」は、追跡する側から見た逃亡者たちの姿。軍隊の規律を象徴するような、行進曲による短い楽章。
第4楽章「プラタナスは語る」は、逃亡者たちを磔にすべく切られたプラタナスの木の立場(女声)と、処刑者(男声)の行為を歌う二つの部分。ここでも風のモチーフが頻繁に登場。
第5楽章「墜落」は、逃亡者の一人ベローニ(名前が登場するのはこの人だけ)のスケルツォ。第1楽章冒頭の逃走のモチーフで始まり、おどけたワルツなども出現。後半ではベローニを追う呼子やサイレンがそのまま逃亡者を追い、幕切れでは墜落死したベローニへのレクイエムが奏でられます。gran canto と表記された最後の弦10部で歌われる哀歌は、ヘンツェが書いた最も素晴らしい「歌」じゃないでしょうか。正に聴きもの。
第6楽章「大聖堂の夜」は、作品全体のクライマックス。使者たち、ただ一人成功した脱走者、聖者たちが夫々の思いをぶちまけます。最初はオケは全休。ア・カペラの室内合唱とオルガンとの対話で始まり、オーケストラと全員に拡大された合唱による頂点へ。クライマックスに至る過程で、4分の2拍子と8分の3拍子を組み合わせ、それとなく「7」拍子を暗示しながら切迫していく表現など、作品全体の3分の1を占める中心的楽章です。
第7楽章「救済」は、脱出に成功した唯一人の主人公の心境を描いたもの。ホルン四重奏にわるアンダンテ・カンタービレで始まり、合唱の“一日だけ”が ppp の静寂に消えて行きます。

敢えて大作に挑んだ沼尻の渾身のタクト、オケも合唱も、そしてオルガンも単なる作品紹介を超えた熱くも冷静な演奏で名演を創り出しました。
一点だけ取り上げれば、第5楽章のワルツ。予習に使ったウェルゴ盤(ヤノフスキ指揮)より遥かに「らしく」響いていました。音だけ聴くより遥かに表現力に富んだ演奏に、最大級のブラヴォ~を贈りましょう。

最後に、何故ヘンツェはこの第9を書いたのか。
度々指摘したように、ヘンツェはゲイでした。ゲイは、現在でも明らかにマイノリティーの立場。向井氏が書く、この作品にはヘンツェのマイノリティーとしての体験が反映されているという見解に同意したいと思います。孤独に耐える、ということ。
“シラーの「歓喜の歌」によって「第9交響曲」を書いたベートーヴェンとは逆に、「悲嘆の歌」を歌う「第9交響曲」を書いた”(保坂氏の寄稿から引用)ヘンツェ、今一度彼の作品を統括的に聴いてみたいと感じた夜でした。

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