2014クラシック馬のプロフィール(9)

今年のクラシック馬の血統紹介も愈々ダービー馬に辿り着きました。本命で快勝したオーストラリア Australia です。父ガリレオ Galileo 、母ウイジャ・ボード Ouija Board 、母の父ケイプ・クロス Cape Cross という血統。
枠順やレース・レポートで紹介してきたように、父はダービー馬、母がオークス馬というダービーを取るために配合されたような血統ですが、ダービー馬×オークス馬という組み合わせで実際にダービーに勝ったのはオーストラリアが初めてだと思います。

ガリレオについては省略し、早速母ウイジャ・ボード(2001年 黒鹿毛)から。
オーストラリアのオーナーは誰も知る通りクールモアですが、生産者はスタンリー・ハウス・スタッド。スタンリーとは即ち「ダービー伯爵 Earl of Derby」を拝受しているスタンリー家代々の競馬拠点のことで、オーストラリアの牝系を辿るということは英国競馬史を概観するということでもあります。
このファミリーを詳しく論ずれば書物が何冊も書けるほどのエピソードに満ちているのですが、ここではそんなスペースはありません。時折織り交ぜる形でオーストラリアのプロフィールとしましょう。

さてウイジャ・ボードに戻れば、この名牝はウィキペディアにも態々一項として取り上げられているほど。詳細はそちらを検索してください。
ジョン・ダンロップ師が調教、生産者でもあるダービー卿の勝負服で2歳から5歳までの4シーズン走り、オークスの他に愛オークス、BCフィリー・アンド・メア・ターフを隔年で2回、プリンス・オブ・ウェールズ・ステークス(牡馬を破り)、ナッソー・ステークス、香港ヴァーズとGⅠに7勝。凱旋門賞3着、ジャパン・カップにも二度遠征して5着と3着、特に最後のレースとなった二度目の時はディープインパクトの3着と、日本のファンにも思い出深い競走馬でした。
ダービー伯爵の勝負服と言えば代々「黒、白帽子」が受け継がれており、ウイジャ・ボードは第19代ダービー伯の所有馬でしたが、この勝負服の馬がオークに勝ったのは第17代が1945年に制したサン・ストリーム Sun Stream 以来という歴史的瞬間でもありました。

そもそも「ダービー」というレース名は、第12代ダービー伯がバンバリー卿とのコイン勝負に勝って命名されたという伝説(疑う人もいます)もあるほど。ダービーと言えば近代競馬の出発点でもあり、12代が創設したオークスとならんで現在のクラシック体系の基本となるレースです。
ダービー伯爵の競馬との関わりは、その後14代、16代、17代、18代と引き継がれ、ウイジャ・ボードのオーナー/ブリーダーで第235代ダービー馬オーストラリアの生産者でもある現在の19代にまで至っています。
もちろん代々のダービー伯が全て競馬関係だったわけではなく、第15代などは競馬を露骨に批判していました。第17代は三度も英国首相を務めた政治家であった一方で世紀の大種牡馬ファラリス Phalaris を生産、今日のサイヤー・ラインの圧倒的な勝利者を産んだ競馬人でもありました。17代はハイペリオン Hyperion 、アリシドン Alycidon のオーナー/ブリーダーでもあります。
17代の弟の息子である甥の第18代は、競馬には先代ほどの情熱が無く、遺産として受け継いだアリシドンで大レースを勝ったものの最終的には16代が創設したスタンリー・ハウス・スタッドを売却してしまいます。この18代の判断がオーストラリア直接のファミリーの基礎となるのですが、それはまた後ほど。

前置きが長くなっていけませんが、ウイジャ・ボードの繁殖成績を列記しておきましょう。
2008年 アワ・ヴードゥー・プリンス Our Voodoo Prince 鹿毛 せん 父キングマンボ Kingmambo 20戦6勝 本来はヴードゥー・プリンスの名、ダービー伯の勝負服で走り3勝(8,10,12ハロン)。豪州に転売されて「アワ Our」を付けて改名、オーストラリアのイースター・カップ(GⅢ)に優勝
2009年 エーギウス Aegaeus 黒鹿毛 せん 父モンスン Monsun これもダービー伯所有で2勝(10,12ハロン)した後ドイツに転売
2010年 フィリア・レジーナ Filia Regina 鹿毛 牝 父ガリレオ ダービー伯の所有馬で5戦1勝 勝鞍はヤーマス競馬場の14ハロン

そして4年目の産駒にして4頭目の勝馬がオーストラリア。ウイジャ・ボードの繁殖牝馬としてのキャリアはスタートしたばかりで、これからも注目される馬たちが続々と輩出されると思われます。いずれもクラシック距離を中心とするミドル・ディスタンス・ホースからステイヤーという特徴も顕著ですね。

2代母セレクション・ボード Selection Board (1982年 鹿毛 父ウェルシュ・ページェント Welsh Pageant)も勿論スタンリー・ハウスで産まれた馬で、2歳時にエアの新馬戦で微差2着。しかし3歳時は仕上げに手間取り、結局シーズン最後に近くなってからヘイドックのマイル戦で大敗。2戦未勝利のまま繁殖に上がります。
繁殖牝馬としてのセレクション・ボードは7頭の勝馬の母となりましたが、最後から2番目のウイジャ・ボードを出すまでは目立った活躍馬は出ていませんでした。名前だけでも紹介しておくと、
1987年生まれのオフィサー・カデット Officer Cadet (鹿毛 せん 父シャーナザー Shernazar)は平場と障害で5勝。1989年のドラフト・ボード Draft Board (鹿毛 牝 父レインボウ・クエスト Rainbow Quest)は牝馬と言うこともあってダービー伯の勝負服で6戦1勝(当代ダービー伯は牡馬は売却し、牝馬のみ繁殖用に所有するというポリシー)
1991年生まれのせん馬スター・セレクション Star Selection (鹿毛 父レインボウ・クエスト)も売却されて平場と障害で8勝。1995年生まれのクラインナ・ボード Cruinn a Bhord (鹿毛 父インチノール Inchinor)は牝馬なのでダービー伯に留まり11戦3勝。
その後も1997年生まれのせん馬スペクトロメーター Spectrometer (栗毛 父レインボウ・クエスト 平場と障害で10勝)、1999年生まれのコーリション Coalition (鹿毛 せん 父ポーリッシュ・プレセデント Polish precedent 5勝)と勝馬こそ続きましたが目立った馬は無く、突然変異の様にウイジャ・ボードが出現したのでした。

3代母はウイジャ Ouija (1971年 黒鹿毛 父シリー・シーズン Silly Season)。当然ながらスタンリー・ハウスのオーナー/ブリードで、5戦2勝。フォルマス・ステークス(当時はGⅡ)4着などの実績を残してスタンリー・ハウスで繁殖入り、初産駒にロージア・ベイ Rosia Bay (1977年 牝 父ハイ・トップ High Top)を出します。
ロージア・ベイはポーチェスター卿に売却されて2勝しただけでしたが、繁殖牝馬として成功。愛セントレジャーに勝ったイブン・ベイ、ヨークシャー・オークス馬ロージエート・ターン Roseate Tern を出します。更に娘のセリーズ・ブーケ Cerise Bouquet もフィリーズ・マイルに勝つレッド・ブルーム Red Bloom の祖母になるという具合。

またウイジャが1980年に産んだ3番仔のテレプロンプター Teleprompter (鹿毛 せん 父ウェルシュ・ページェント)はせん馬ながらダービー伯の黒・白帽子の勝負服で1マイルから2000メートルの距離に活躍し、アメリカでアーリントン・ミリオンに、本拠地の英国でもクィーン・エリザベスⅡ世ステークスに優勝。偉大なダービー伯爵の所有馬リストに名を連ねました。

そして4代母がサマンダ Samanda (1956年 栗毛 父アリシドン)。彼女こそがスタンリー・ハウスにこの牝系を持ち込んだ切っ掛けとなるのでした。
ここからは再びダービー伯爵家の歴史に戻りますが、冒頭に紹介した第18代は、当時フランスの競馬仲間だったエリザベス・クーチュリーと繁殖牝馬を交換するという約束を交わします。18代がエリザベスに贈ったのはアリシドンの半姉に当たるアンボイナ Amboyna 。
一方18代が受け取ったのは、当時同じ7歳だったグラディスカ Gradisca (1943年 栗毛 父ゴヤ Goya)。この約束には、グラディスカがフランスにいた時に配合したトルネード Tornado の産駒がもし牝馬なら、クーチュリー夫人が買い取るという条件が付けられていました。実際に生まれたのは牝馬で、買い取られてフランスに戻り、タヒチ Tahiti と名付けられて仏オークスに優勝。取引はクーチュリー夫人に軍配が挙がったように見えたものです。

しかしこの交換、その後の歴史を見るとスタンリー・ハウスにも大きな財産を齎すことになったと言えるでしょう。フランスに戻されたタヒチを別にすれば、英国でのグラディスカの産駒はたった2頭の牡馬がマイナーな勝馬になっただけ。残した牝馬もアリシドンを父に持つ2頭だけでした。
その1頭である未勝利馬のアルマー Almah は、2代後にオーストラリア・ダービーとシドニー・カップに勝つ名馬キングストン・タウン Kingston Town を出して歴史に名前を残します。今年のダービー馬オーストラリアとは、あるいはこの馬を連想しての命名なのかもしれません。

そしてもう1頭のサマンダは、産まれて間もない頃に牧場のフェンスに激突する事故により失明。当然ながら競走馬としての運命は絶たれました。目こそ失明したものの耳と嗅覚を頼りに繁殖牝馬としての役割を全うしたサマンダ、その最初の産駒をアイルランドへの空輸中の事故で失うという不幸に見舞われながらも12頭の産駒を得、うち9頭が勝馬になりました。
娘は2頭でしたが、ウイジャの姉に当たるサムズ・ソング Sam’s Song は、3代を経てジュライ・カップと現在のダイアモンド・ジュビリー・ステークスを制したオーウィントン Owington を出して名前を残します。

更にこの牝系でもう2頭紹介すると、仏オークスに勝ったタヒチも繁殖牝馬として成功し、愛セントレジャーに勝ったバークレー Barclay を出す一方、娘のフレーシュ・ダムール Fleche Damour からも2代を経て仏セントレジャーのレックス・マグナ Rex Magna が出ることになります。

ファミリー・ナンバーは12-b。ダッチェス Duchess を基礎とする牝系です。

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