読売日響・第539回定期演奏会
読響の7月定期は、同オケには初登場となるハルトムート・ヘンヒェンの指揮です。以下のプログラム。
ベートーヴェン/交響曲第5番ハ短調 作品67
~休憩~
ショスタコーヴィチ/交響曲第8番ハ短調 作品65
指揮/ハルトムート・ヘンヒェン
コンサートマスター/小森谷巧
フォアシュピーラー/伝田正秀
ヘンヒェンは1943年ドレスデン生まれ。読響とは初めての共演ですが、私も会員である日本フィルとは何度か共演していて、私は初めてではありません。
確か前回は未だマエストロ・サロンが行われていて、私はシューベルトとブルックナーの二つの未完成交響曲を並べた演奏会とそのサロンに参加しました。以前のことで細部は忘れてしまいましたが、演奏会の曲目構成にはかなり拘りのあるマエストロで、そのときも選曲の意図を語っておられたことを覚えています。
また学者としての一面もあり、前回は確か自身で手を入れたパート譜を持参しての来日、特にブルックナー作品のアナリーゼが印象的。私はその解説をスコアに書き込んで、現在でもブルックナー/第9を聴く際の基準にしているほどです。
今回は3種類のプログラムが用意されていますが、それをザッと眺めただけでもヘンヒェンの意図が見えて来るよう。読響にはマエストロ・サロンやプレ・トークのような企画がありませんので、聴き手が事前に調べ、考えてから出掛けなければいけません。
今月の8日と9日にはブラームス/悲劇的序曲、シューベルト/未完成、ブラームス/第1を振り、今定期の後は20日に池袋でマルティヌー/リディツェ追悼、ベートーヴェン/第3ピアノ協奏曲、シューベルト/ザ・グレイトが演奏される予定です。
この3種類のプログラムには、明らかに統一されたコンセプトがあることが判るでしょう。定期ではハ短調の交響曲を並べ、しかも両曲共にハ短調で始まり、ハ長調で終わるという共通点がある。そのハ短調→ハ長調という構図は、ブラームスの第1も、マルティヌーのリディツェにも当て嵌まります。
更に言えば、リディツェへの追悼には、ベートーヴェンの第5交響曲の有名な冒頭が引用されますね。20日は他にベートーヴェンのハ短調協奏曲と、シューベルトのハ長調交響曲という組み合わせでもあります。偶然こういう調性の音楽が並んだとは考えられないじゃありませんか。
今回の定期も、その流れの中で聴き、考えるべきなのです。
前半のベートーヴェンは余りにも有名、アークヒルズのカラヤン広場に棲み付いている雀たちでも知っているほどでしょう。但し、楽員が登場した時にハッと思ったのは、木管奏者が4人づつ登場したこと。そう、倍管によるベートーヴェン演奏は、現在では少数派じゃないでしょうか。
ヘンヒェンは速目のテンポ、第1楽章はもちろん、第4楽章も提示部繰り返しを実行しました。もちろん古楽系のスタイルではなく、かと言って大時代的な表情は一切出てきません。
後半のショスタコーヴィチは、演奏機会が少ない方に属する8番。これも以前の話ですが、東京のオーケストラで演奏会がいくつも重なったことがあり、私もその一つを聴いた覚えがあります。それ以来のナマ体験でしょうか。
作品そのものは、遥か昔にコンドラシンがモスクワのオケとの来日公演で接し、その圧倒的なパワーに舌を巻いた遠い記憶があります。
今回改めてベートーヴェンと並べて聴いて感じたのは、第8交響曲はベートーヴェンへのオマージュではなかろうか、ということ。そういう難しいことは学者や評論家に任せておけば良いのでしょうが、音楽作品は作曲家の手を離れてしまえば、聴き手の自由な解釈に委ねられて然るべき、とも考えます。
今月のプログラム誌では、「全編を通じて明確なソナタ形式が遠ざけられている」と書かれていましたが、逆に私にはソナタ形式そのものを含んだ交響曲そのものと感じられました。但し、ベートーヴェンが発展させたソナタ形式とは若干異なるもの。ショスタコーヴィチ的発展と言い換えても良いでしょう。
全体は5楽章ですが、後半の3つの楽章は切れ目なく演奏される。これは正にベートーヴェンが田園交響曲で試みた交響曲の発展形式ですよね。
第2楽章はスケルツォですが、構造としては5部形式。実は5部形式のスケルツォもベートーヴェンが発展させた形で、第4交響曲から第7交響曲まではこのスタイルです。第5は今回の演奏でもトリオを挟んだ3部形式として演奏されましたが、ベートーヴェンはスケルツォとトリオをもう一度繰り返す5部形式で書いた積りだったことが最近の研究で判っています。
ショスタコーヴィチが面白いのは、スケルツォ→トリオ→スケルツォ→トリオと続け、最後の第5部ではスケルツォ楽想とトリオ楽想を同時に演奏してしまうこと。正にショスタコーヴィチ的発展でしょうか。
第1楽章と第5楽章がソナタ形式、というのは異論があるかも知れません。しかし全曲の半分を占める第1楽章は、アーチ型に構成されたソナタと見ることが出来ないでしょうか。
主題は3つあります。第1主題は、冒頭でチェロが奏する下降2度を含んだもの。これは第1楽章だけでなく全曲のモットー主題で、全交響曲がこのモチーフで創られていると言っても過言でないほど。その意味でも、第8はショスタコーヴィチの全15曲の中でも最も交響曲的な交響曲だと思います。
第2主題は第10小節からファーストに出る pp のメロディー。これは第1主題の下降2度を共通項に持ちます。第3主題は5拍子になってから登場する、やはりファースト・ヴァイオリンが奏でる息の長い旋律線。ここにも下降2度が顔を出します。
長い提示部に続き、アレグロ・ノン・トロッポの速い部分は、解説では中間部と紹介されていましたが、私は展開部と聴きました。そして楽章の最高のクライマックス、打楽器群の sfff に導かれて第1主題冒頭が強奏される個所からが再現部でしょう。
但し再現部は主題が順番に登場するのではなく、長いイングリッシュ・ホルン(浦丈彦の完璧なソロ!)の独白を挟んで、第3主題→第2主題の順に再現し、あっという間に終わってしまう。即ち、アーチ形のソナタ形式。
第3楽章は行進曲調のスケルツォとありましたが、私はトッカータの方が適切かと思いました。4つの音から成る動機が絶え間なく繰り返され、ギャロップに乗ってトランペット、続いて弦による「死の舞踏」。トッカータの回帰からクライマックスを経て第4楽章へ。
第4楽章は全曲のモットー主題に似た強奏から始まりますが、その本体はパッサカリア。ショスタコーヴィチのパッサカリアは、必ず誰かの死を意味するもので、この作品の中では最も深刻な印象を与えます。唯一、戦争の犠牲者と結びつく個所かも。
パッサカリア主題が9小節で出来ているのもショスタコーヴィチ風発展と言えるもので、これが正確に11回変奏されていきます。パッサカリア主題も「ド・シ・ド」という下降2度を核としたもので、低弦に出現。これをホルン(第5変奏)、ピッコロ(第6変奏)、クラリネット(第8変奏)などが装飾して行きます。どうしてもチラチラ聴こえる装飾音に耳が行きがちですが、耳を低音に据えておけば、この楽章は怖くありません。
そしてパッサカリアが第5楽章に流れ込むところ。ここがこの交響曲の最高の聴き所でしょう。嬰ト短調がスーッとハ長調に流れていく解放感、安堵感。ベートーヴェンの第5がハ短調からハ長調に力強く転換して行ったのとは対照的ながら、何とも劇的な解決法だと思いませんか。
第5楽章の最初にファゴットに出る主題は、正にパストラール。モットー主題の反転型となる「ド・レ・ド」が中心です。この後はワルツ風な第2主題、チェロ+ファゴット+クラリネットの第3主題と続き、展開部は「ド・レ・ド」によるフーガ。
展開部の終わりに第1楽章の再現部に出現したのと同じ形で全体のモットー主題が威嚇しますが、フェルマータの後は再現部。ここもアーチ形に第3主題→第2主題→第1主題の順で再現され、提示部とは正反対の室内楽になってしまいます。
全体の最後は、終楽章のテーマでもあった「ド・レ・ド」が意味ありげに繰り返され、モレンドの内に消えて行くのでした。
第8交響曲には表題も、ストーリーもありません。もちろん戦争3部作の第2作として評価されているのですから、先の戦争と結びつけることは可能でしょう。
しかし真に音楽的なヘンヒェンの指揮、読響の素晴らしいアンサンブルで聴いていると、これは純粋な交響曲。その先人にして大改革者であったベートーヴェンへのオマージュとして自然に聴こえてくるのです。
良く考えられたプログラムを、充実した演奏で聴いた定期演奏会、という感想でした。
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