読売日響・第461回定期演奏会

メシアン/われらの主イエス・キリストの変容
指揮/若杉弘
独奏/木村かをり(ピアノ)、毛利伯郎(チェロ)、一戸敦(フルート)、藤井洋子(クラリネット)
加藤恭子(マリンバ)、藤本隆文(シロリンバ)、村瀬秀美(ヴィブラフォン)
合唱指揮/三澤洋史
合唱/新国立劇場合唱団
コンサートマスター/藤原浜雄
フォアシュピーラー/鈴木理恵子

を聴きに池袋の東京芸術劇場に向かいます。が、何とも気が重い。会場に着くと、チケットを求めて看板を掲げている人がいます。聞けば完売とか。こういうプログラムでも満席になるのか、というのが驚きです。
しかし予想通り、空席も目立っていました。惧れをなしてパスした定期会員が少なからずいた、ということでしょう。

まずシロリンバという楽器を見物に舞台下に行きました。思ったほど大きくありません。見た目ではマリンバとあまり変わらない感じ。

ステージは、客席を4~5列ほど犠牲にして増設していました。その分座席が減っているんですね。
合唱はオーケストラの奥に並べます。普通の配置。ソリストたちは、指揮者の左手からピアノ、チェロと並び、フルート、クラリネットは指揮者の前。指揮者の右手にヴィブラフォン、シロリンバ、マリンバの順に奥に向かって配置されていました。コントラバスも10本揃っています。

この曲は、読売日響だから演奏が可能なのでしょう。他ではN響と都響にしか出来ないと思います。技術の問題ではなく、カネが掛かり過ぎる。例えば日本フィルでは、沼チャンが如何に駄々を捏ねても無理な相談でしょうね。言葉は悪いけれど、金持ちオケでなければ取り上げられない作品。
合唱団からして如何にもギャラが高そう。実際、彼等はそれなりの合唱を聴かせてくれました。大拍手う~。

結論から言えば、よくこれだけの大作を演奏してくれました。200人を超えるプレーヤーの皆様、ご苦労様でした。その労は大いにねぎらう価値のあるコンサートです。
では素晴らしいコンサートだったかというと、それは違いますね。
問題は指揮者にある、というのが私の感想。
確かにほとんど演奏不可能な大曲に果敢にチャレンジした精神は賞賛します。しかし芸劇に鳴り響いたのは、単に譜面を音にしたというだけ。肝心の「音楽」が全く聴こえてこなかった。私には・・・。

まずテンポが遅過ぎます。難曲を無難に紹介する安全運転。
指揮者の仕事は、紙とインクで出来ているスコアから「スピリッツ」を曳き出すことにあるのでしょ。それを完全放棄してしまった若杉氏。
ここに彼の限界がありましょうか。あるいは加齢による遅延症?
これが天下の名曲と呼べるような作品であれば、何とか作品の力で感動を生み出すことは出来るでしょう。しかしメシアン。

私の好みから言えば、「愚作」に等しいコレではどうしようもありません。2時間になんなんとする長い曲を、退屈させずに聴かせるには工夫が必要ではないでしょうか。それをただ楽譜を追うことに終始していては感動は微塵も生まれてきません。
トゥーランガリラ交響曲はまだ作品自体にエネルギーが内在しています。しかしこの変容は、いくつかのパターンを組み合わせたり繰り返したりするだけ。作品自体に発展性のかけらもないのです。

スコアも見ていないで批判するのは間違っているでしょうが、私にはこれだけの大編成と長時間を費やす必然性が感じられませんでした。それでも聴衆を納得させるように努力するのが指揮者じゃないのでしょうか。
チョッと言い過ぎましたね。ということで、つまらなかった。他の指揮者で聴けば違った感想になるかも知れないけれど、繰り返し聴く気にはなりません。楽譜も買いません。これで8万円とは・・・。

 

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