読売日響・第491回名曲シリーズ

音楽は難しい。何を書いていいか判りません。以下のコンサート。

読売日響第491回名曲シリーズ 6月16日 東京芸術劇場
フンメル/トランペット協奏曲 変ホ長調
~休憩~
マーラー/交響曲第5番
指揮/ヤコフ・クライツベルク
独奏/アリソン・バルソム
コンサートマスター/デヴィッド・ノーラン
フォアシュピーラーは小森谷功。

最初のフンメルは、Alison Balsom という女流トランペット奏者のソロ。この楽器で女性というのは珍しい部類でしょう。背の高い金髪。体力もありそう。
カデンツァは一切ありませんでしたから、どういう版が使われたのかは判りません。テクニックは確かですね。
ただ、フンメルという作曲家はモーツァルトやベートーヴェンと同時代でありながら、今日ではほとんど知られていません。それなりの理由はある、という感想でした。
クライツベルクという指揮者は初めて聴きますが、協奏曲も暗譜で指揮します。アンコールなどは無し。

さて問題はマーラーです。
風貌は、髪の生えたカリニャーニみたい。1959年レニングラード生まれのイケメン。
手が長く、それを持て余し気味に振るので、テナガコガネがもがいてるのを連想してしまいました。ヤコフ・テナガコガネ。
指揮棒を摘むように持って、手首を頻りに回転させる。どうも見ていると煩く、気になってしまうのでした。

客席の反応は凄かったですよ。特にトランペットの長谷川、ホルン・山岸、ティンパニの菅原に対する歓声が凄まじく、今日は珍しくも黄色い“ブラヴィ!!”が掛かっていました。
実際オーケストラは好調を持続しており、世界に冠たる名人オケの名に恥じない名演でした。

クライツベルクの指揮、これが纏まりません。順番に思い出すと、第1楽章の最後の Klagend 、あまりにも美し過ぎて拍子抜け。かつて小林研一郎がオケから「壮絶な濁り」を曳き出して度肝を抜いたけれど、私に言わせればあれが正解。(そういえば的外れにその濁りを批判した輩がいたっけ)
これではマーラーの苦渋が聴こえてきません。

第1楽章と第2楽章の間、アタッカで入りません。少し間が空きます。これ、チョッと疑問。
しかし第2楽章は面白いですね。クライツベルクは余程頭が良いんでしょう。複雑なスコアを見事に整理整頓して、判り易く聴かせていきます。テンポは速い。読響も良くこのテンポに喰らい付きます。そのヴィルトゥオージティに感嘆。

第3楽章。前の楽章に輪をかけて速い。コルノ・オブリガートは山岸氏が吹きますが、特別に変った事はせず、定位置。
しかしこの速さが私には引っ掛かりましたね。これは一種のワルツの趣があって、そのまま踊れるような雰囲気が欲しいのです。ベルリオーズの幻想における第2楽章の役割。
クライツベルクは面白く聴かせることに徹しているのでしょうか、反って単調で退屈になってしまいます。手の内が見えてしまう。

第4楽章は一転、極めて遅いテンポでいかにも意味ありげに歌い上げていくのです。指示の細かいこと。やや陶酔の気味。少し鼻に付きます。
驚いたことに、アダジェットの音が完全に消えるまでホルンが入りません。ここもアタッカのはず。もちろん休みは置きませんが、無音状態からのホルン信号。
ここも疑問ですよ。この人は他と違うことをやって耳目を集めようとしているのではないか。

そう思うともうダメで、第5楽章も矢鱈に速いテンポで煽る姿しか目に入らなくなります。
聴かせ所をシッカリ抑え、オーケストラを鼓舞して盛大に鳴らしますから、客席は大喜びです。
全体としては極めて速いテンポなのですが、「速い」と「推進力がある」は、必ずしも同義ではない、と私は思うのです。
どうも内側から燃焼してくる推進力に聴こえず、外から押し付けた感じ。
その音楽処理があまりにも面白すぎて、結果としてマーラーとして聴こえてこない。物分りの良いマーラーには疑問を感じます。
これなら、決して好きにはなれないけれど、苦渋とストップ・アンド・ゴーに苛々させられるコバケン・マーラーの方がずっとマーラーの核心を衝いている、と思うのでした。

あの大歓声ですから、天邪鬼は私だけだったかもしれません。
それでも最後まで聴衆の大拍手に付き合っていたのは、今夜が最後の舞台となったティンパニスト・菅原淳氏の勇姿を瞼に焼き付けておきたかったからなのです。
客席に特別取材でしょうか、本格的なシステムで氏を追うカメラマンの姿がありました。
淳さん、長い間お疲れさまでした。今日は「定年」という旅立ちですね。

 

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