読売日響・第545回定期演奏会

一旦寒気が緩んでいただけに、昨日のサントリー行は辛かった。一冬でも最強クラスという冬将軍殿が居座るということで、肌を突き刺すような寒風が身に沁みます。
それでも読響の2月定期、何とも不思議なプログラムを外すわけにはいきませんね。

武満徹/鳥は星形の庭に降りる
バルトーク/ヴィオラ協奏曲(シェルイ版)
~休憩~
アイヴス/答えのない質問
ドヴォルザーク/交響曲第9番
指揮/シルヴァン・カンブルラン
ヴィオラ/ニルス・メンケマイヤー
コンサートマスター/日下紗矢子
フォアシュピーラー/伝田正秀

御存知の様に読売日本交響楽団は来月初旬、欧州公演に出掛けます。3月2日のベルリンを皮切りに、ワルシャワ、ケルン、ユトレヒトと回って8日はベルギーのブリュッセル。
ほぼ1週間に5都市で演奏会を開き、もちろん首席指揮者カンブルラン指揮の下、2つのプログラムを披露する予定です。2月定期はその一つ、ツアー前半のベルリン、ワルシャワ、ケルンで紹介される曲目と全く同一のもの。
因みにユトレヒトとブリュッセルでは去年12月に行われた第543回の演目、酒井健治の新作にメシアンのトゥーランガリラ交響曲との組み合わせで、この2回は欧州公演の壮行会的な意味合いも持っていました。

恐らくそのためでしょうか、今回はいつもの定期とは若干雰囲気が異なります。何となくフォーマルな聴衆が目立っていましたが、開演直前に団の名誉顧問を務められる高円宮妃が入場されたので納得。特別なセレモニーこそありませんでしたが、オーケストラにとってもハレの舞台が続くことになるでしょう。
今定期のオーケストラ・メンバーについても同じ。もちろんこの布陣でヨーロッパに旅立つのでしょう、特に管楽器の豪華な首席陣がプログラムの前半と後半を分担し、言わばオールキャスト読響が実現していました。

さてプログラム。聴く前からカンブルランの「意図」に悩まされましたが、聴き手にある種の「問い」を投げかけ、音楽に付いて再考してもらう姿勢を示すことも現代のオーケストラに課せられた使命。その謎解きに挑むのも定期会員の楽しみと言えるでしょう。
それを頭の片隅に置いて、コンサートが始まります。

最初は日本を代表する武満徹の「不思議な題名」の作品(広瀬大介氏のプログラムノート)。サンフランシス響の委嘱、読響にも客演したことのあるエド・デ・ワールトの指揮で初演された作品で、現代芸術作家マルセル・デュシャンの髪形を見た武満が見た夢が元になっているのだとか。
冒頭に登場する soloistic と指示されたオーボエが「鳥のテーマ」でしょう。しかし英語の原題にある flock とはあひるなどの群れのことで、特定の1羽の鳥ということではないと思います。このオーボエ、あるいはオーボエ群のテーマは曲中に何度か姿を現し、作品の最後にも再び現れて全曲を閉じる構成。
広瀬氏の解説にもあったように、全体は練習番号を振られた13の部分から成るもの。題名の星形は、英語では pentagonal で、即ち5角形。これが弦楽5部を表すのか、あるいは木管・金管・打楽器・ハープとチェレスタ・弦の5つの楽器群を意味するのかは不明ですが、いずれにしても象徴的な意味が籠められていると思われる作品。

カンブルランはこの曲では指揮棒を持たず、作品の繊細で透明な響きに心を寄せているようでした。練習記号J(第10部)は senza tempo 、音楽の進行は秒単位で支持され、指揮者もリズムは取らずに指で数字(これも10)を示していきます。ここが全曲の頂点と聴いて良いでしょう。
「鳥は星形の庭に降りる」は武満の出版社であるドイツのショットではなく、フランスのサラベールから出版されていることもカンブルランが敢えてこの曲を選んだ理由の一つかも知れませんね。

2曲目はバルトークの遺作。以前に読響ではピーター・バルトーク版を演奏しましたが、今回は最初に弟子のティボール・シェルイが完成させたオーケストレーション。バルトーク自身はオーケストレーションを施す前に急逝しましたが、その直前の手紙ではヴァイオリン協奏曲より「ずっと透明なものになる」と暗示していました。
カンブルランの付けた伴奏を聴いていると、バルトークが臨んだ「透明な」オーケストレーションが見事に表現されていることが聴き取れます。弱音を大切にし、地味なソロ楽器を鮮やかに曳き立てていく手腕。カンブルラン/読響の集大成の響きだと思いました。

ソロのメンケマイヤーは1978年のブレーメン生まれ。これぞヴィオラの音、というタップリした音量を持ち、抜群の技巧で弾き切ります。楽器は新しいもののようで、ミュンヘンのペーター・エルベン作とのこと。
アンコールはバッハの無伴奏チェロ組曲第1番のサラバンド、もちろんヴィオラ版です。決して力を入れて弾いてはいませんが、サントリーの大空間の隅々にまで音が届くのは、名手の証し。

さてプログラムも後半。最初のアイヴスは弦楽器にトランペットのソロ、フルート4本という室内楽なのに、フルメンバーが登場してチューニングを始めます。
この光景を見た瞬間にカンブルランの意図が判りましたね。そう、アイヴスとドヴォルザークは休みを入れずアタッカで続けるのだろう、と。

で、予想通りでした。アイヴスでのトランペット・ソロは、P席奥のオルガンの下で田島勤主席が吹きます。このトランペットが奏する短いモチーフがアイヴスの「問い」。その一々に4本のフルートが「答え」を出しますが、回を重ねるに連れてパニック状態に。
結局、適当な答えのないままに7番目の問いが投げかけられます。その間弦は ppp で持続音を鳴らし続けるだけ。最後は弦とフルートの縦線は完全に乖離してしまいます。

最後の問いに答えがないまま、カンブルランが静かに新世界交響曲の開始を指示します。この新世界が、我々が日常的に聴いている新世界交響曲であるわけはありません。
第1楽章提示部の繰り返しはもちろん実行しますし、特に第2楽章などメロディー・ラインを支える弦の細かい動きを際立たせていくのです。癒しの新世界とは正反対、緊張とスリルに溢れたドヴォルザークで、カンブルランは聴衆に「音楽とは何か」という問いを投げかけるのでした。

今回は欧州公演の予行演習的な性格もあるのでしょう、恐らくヨーロッパでも取り上げられるアンコールが披露されました。ドヴォルザークのスラヴ舞曲作品72-2。

最後まで聴き通せば、カンブルランの「意図」が見えてきたようです。これは東洋のオーケストラが西洋の音楽ファンに披露するプログラム。前半の武満とバルトークは東洋を代表する作曲であり、後半のアイヴスもドヴォルザークも、所謂西洋先進国のクラシックから波紋のように広がっていった非ヨーロッパ的な音楽。
更に1977年の武満、1945年のバルトーク、1908年のアイヴスと続き、最後はアイヴスから僅か15年しか差が無い1893年のドヴォルザークと時代を遡って行きます。これではドヴォルザークは現代の視点から見た、現代音楽の出発点としての新世界交響曲に成せざるを得ないでしょう。しかもアイヴスとドヴォルザークは続けて演奏され、旧世界(ヨーロッパ)への問いかけにもなる。
その問いが何か、答えは出るのか。それは聴き手一人一人が個々に考えることで、演奏会はあくまでも示唆するに留まります。これは東京でもベルリンでもワルシャワでもケルンでも同じでしょう。

 

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