日本フィル・第668回東京定期演奏会
先週の横浜でシーズン後期をスタートさせた日本フィル、今週末は東京定期でその存在感をアピールします。ラザレフが刻むロシアの魂、≪シーズンⅢショスタコーヴィチ≫の2回目。取り上げる作品は2曲ともショスタコーヴィチという痛快なプログラムです。
しかもこの2曲、全く同じ年に作曲されていながら性格的には真逆な内容で、ラザレフが指摘するショスタコーヴィチの多面的な人物像を描くという目的もあるものと推察されましょう。
ショスタコーヴィチ/ピアノ協奏曲第2番
~休憩~
ショスタコーヴィチ/交響曲第11番
指揮/アレクサンドル・ラザレフ
ピアノ/イワン・ルージン Ivan Rudin
コンサートマスター/木野雅之
フォアシュピーラー/千葉清加
ソロ・チェロ/菊地知也
プログラムノート(千葉潤)でも紹介されていますが、第11交響曲はラザレフと日本フィルの出会いとなった記念すべき作品。記録によると2003年3月のことで、丁度12年前になります。
個人的には大変なショックを受けた演奏会で、その際に東京国際フォーラムで開催されたマエストロ・サロンのことも昨日のことのように思い出すことが出来るほど。とてもあれから12年、一回りの年月が経ったとは思えません。
当時の日フィルには年間定期会員にCDをプレゼントする慣例があって、翌年の記念CDがラザレフのショスタコーヴィチ第11番でした。今回もそれを聴き直してから出掛けましたが、ラザレフのコンセプトに微塵の変化は無く、変わったとすればオーケストラが更なるレヴェル・アップを達成していること。そこにはもちろんラザレフの薫陶、それに応える楽員一人一人の意識改革があったことは言うまでもありません。
最早「語り草」になっている2003年の名演に再開できる喜び。その時聴き逃したファンにとっては、ラザレフの真価を自分の耳と目で確認できる絶好のチャンス。
ホールに入ると、舞台下手奥に置かれた大きな鐘が目に飛び込んできます。そう、あの時のマエストロサロンでもラザレフは鐘について熱く語っていましたっけ。
更に目を周囲に向けると、テレビ収録用と思われるカメラも。NHKではなく、何処か民放系BSチャンネルが収録しているとのこと。詳しく聞くのは忘れましたが、何れ映像として見ることが出来るのかも知れません。
また集音用のマイクも凄まじい陣容で、特に休憩中にスタッフが何本ものマイクを林立させて行く光景は見ものでした。恐らく商業用のCD録音も同時に行われるのでしょう。仮にこれが一般にも入手できるようになれば、12年前の演奏との比較も可能。収録を許可するということは、ラザレフにとってもオーケストラもにとっても演奏に自信があるということの証明でもありましょう。
ラザレフ/日フィルの最初の出会いの際のカップリングはラフマニノフの第1ピアノ協奏曲(小川典子のソロ)でしたが、今回は同じピアノ協奏曲でもショスタコーヴィチの余り演奏されない2番の方。もしかするとナマ演奏は私にとっては初体験かも知れません。
今回のソリストは、1982年生まれのロシアの若手、と言っても良いのでしょうか。紹介されたプロフィールでは10歳でオーケストラと共演したとありますから、かなりの早熟だったのでしょう。イタリア、カザフスタン、ギリシャなどのコンクールでの入賞しているそうですが、世界的に著名なコンクールでの優勝歴はなさそう。それでもモスクワの国際音楽祭「アルスロンガ」で芸術監督を務めているという肩書を見れば、かなりの実力者であることが想像できます。
写真で見るよりもスマートな印象でフラリと登場したルージン、何となく頼りなさそうにも見えます。おい、大丈夫なのか、この人。
ショスタコーヴィチの2番は息子マクシムの勉強用に書いたもので、冒頭は両手の単音のみのユニゾンで「お気楽」に始まります。ところが小太鼓が入ってくる辺りからショスタコーヴィチの本性が出現し始め、ルージンのピアニズムも牙を剥きだします。
それからは凄かった、としか言いようがありません。何というテクニック、低音の凄みある音響にしても混濁は皆無。一音一音がクッキリと浮き立ち、強靭にして多彩な音色にはただ唖然とするばかり。え、何だこの人!!
改めて第2協奏曲を味わうと、第2楽章は美しさの極み。得意だった映画音楽の一場面を連想させるようで、シリアスな作品にもロマンス映画のバックグラウンドにも使えそうな楽章。7拍子が連発する第3楽章は痛快の極み。ラザレフ/日フィルのピタリと合ったアンサンブルが更に作品の面白さを引き出します。
ルージンが凄いのは、自分のパートだけに没入するのでなく、音楽のキャラクターがそのまま自身の表情に反映されていく所。
例えば第2楽章を閉じる高いC音がそのまま第3楽章の軽いアレグロにアタッカで流れ込む場面。アンダンテのしっとりした抒情が、同じ音を並べながらもコミカルな楽章に豹変する。このシーンでのルージンの表情は、思わず変化する音楽をそのまま目や口元に浮かび上がらせるのです。この表現力に溢れた音楽家は、ラザレフのピアニスト版とも言えそう。恐らく遠い将来には指揮者としても活動する日が来るのではないでしょうか。そんなことも予感させるピアニズムでした。
一度舞台に引き揚げたルージン、直ぐにアンコールに向かう潔さ。弾かれたのは、何とプロコフィエフの難曲、第7ピアノ・ソナタの第3楽章。この7拍子のみで書かれたトッカータ風音楽を、この若者は一気呵成、何の衒いも無く完璧に弾き切ってしまいました。ジンジンと響く低音の魅力、歯切れの良い強烈なリズム感。
その昔エミール・ギレリスが欧米に初登場したとき、ギレリスは“ソ連には私より凄いピアニストが幾らでもいるよ”と話していたことを思い出しました。それがリヒテルでありベルマンだったのですが、改めてロシアという国の底力、奥深さに想いを馳せました。
協奏曲に圧倒されて感想が長くなりましたが、メインの第11交響曲は流石に素晴らしいもの。冒頭のクレムリンを覆う不穏な空気が鳴り響いた瞬間から、協奏曲とは対照的なショスタコ・ワールドが姿を現します。
そこからは12年前の名演の再現と、更にパワーアップを果たした日本フィル渾身の壮絶なアンサンブル。もちろん第3楽章、ヴィオラが息を潜めて歌う革命歌「永遠の記憶」も健在で、スコアでは p 一つのこの楽節も、ラザレフは p 五つで、と指定する由。最弱音から最強音まで極端にダイナミックの幅を拡大したラザレフのショスタコーヴィチ、この音を十二分に収録するにはあれだけのシステムが欠かせないのでしょう。
この交響曲は、唯聴いていれば1905年の革命を具体的に表した一種の描写音楽の様にも見えますが、作品の鍵は、やはり「鐘」の存在にあると思います。
第4楽章、イングリッシュ・ホルンの哀歌が終わった後、音楽はティンパニ、大太鼓、タムタムを轟かせながら鐘の響きをモシテいきます(練習番号167から)。ここから音量は次第に膨らみ始め、最後に初めて本物の鐘が登場する。
この「鐘」こそが交響曲の真の主役で、この楽章のタイトルにもなっている「警鐘」でもあります。ショスタコーヴィチは自身が生まれる前の事件を作品の題材として扱いましたが、自らも人間の理不尽な行為を何度も身を以て体験してきました。そして作曲者の死後も、人間の理不尽に終焉する気配はありません。
だからこそ、この鐘には強いメッセージがあり、作品に普遍性を持たせているのでしょう。人類に鳴らす警鐘、「人間」の存在そのものが理不尽なのだ、と言っているようにも聴こえました。
ラザレフのショスタコーヴィチ・シリーズは未だ未だ続き、一回も聴き逃せない演奏会が目白押しです。
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