読売日響・第548回定期演奏会

未だ5月だというのに第6号が去った台風一過の昨日、サントリーホールで読響定期を聴いてきました。台風が持ち込んだ湿気の所為か、未だ熱さに慣れていない躰には蒸し暑さが堪えます。
昨日は特に不快に感じたのは気候だけじゃなかったようでして、それはこういうこと・・・。

モーツァルト/ピアノ協奏曲第17番ト長調K453
~休憩~
ショスタコーヴィチ/交響曲第7番「レニングラード」
指揮/エルヴィン・グルベルグ・イェンセン
ピアノ/アントレアス・シュタイアー
コンサートマスター/長原幸太
フォアシュピーラー/伝田正秀

5月の定期を任されたイェンセンと言う人はノルウェーの新星だそうで、私はその名前も初めて聞きました。1972年生まれというから新星と言っても42か43歳、若手に分類するには無理がありそう。
ハノーファーの北ドイツ放送フィルの首席を5年間務めたそうで、客演指揮者としてはベルリン・フィル、コンセルトヘボウ、パリ管など世界トップクラスがズラリ。指揮してきた作品を見るとオペラを得意にしているようで、今年11月新国立歌劇場でデビューする由。読響とは今回が初共演だそうです。
初登場にショスタコーヴィチのレニングラードというのは何ともへヴィーですが、今年が第1次世界大戦終結70周年ということも選曲の理由かと思われます。ソ連、というか先般行われたロシアの戦勝記念祝典には違和感を覚えましたが、政治的なことは話題にしません。

で、初めて見たイェンセン、実に背が高い男で、指揮棒を摘まむように使い、スコアを見て指揮していました。この演奏会だけでどうこう言う資格も能力も持ち合わせていません。が、

出演者を眺めた限りでは、5月はシュタイアーを聴く会かな、と思ってホールに入ります。この人も放送などで聴いた記憶はありますが、ナマは初めて。古楽器のフォルテピアノやチェンバロを弾く才人として有名ですから、今回のモーツァルトもフォルテピアノかなと思いましたが、舞台には大きなスタインウェイ・グランドが据えられています。先ずこれに拍子抜け。
更には譜面台が立ててあり、恐らくピアノのパート譜も置かれています。ひょっとしてモーツァルトを譜面を見ながら弾くのか? 私の極めて少ない記憶の中に、モーツァルトの協奏曲を暗譜せずに弾いた人はいないのでは?

ノーネクタイ、リラックスしたスタイルで登場したシュタイアーは、やはり自分で譜面を捲りながらモーツァルトを現代楽器で弾きます。自分のパートを弾くだけでなく、最初からオーケストラだけの提示部でも和音を奏で、このために譜面を見る必要があるのだ、と言わんばかり。
でもね、私はこのピアノ、全く感心しませんでした。古楽奏者らしく装飾を入れたり、特にカデンツァ(第1・2楽章とも恐らくモーツァルト自作版だったと思います)は如何にも楽器として未発達なフォルテピアノの風合いを出すような弾き方。その音楽はブツ切りに聴こえてしまうのでした。
アンコールにモーツァルトのハ長調ソナタ(K330)から第2楽章を弾きましたが、伴奏が無い分、余計に古楽風の解釈が目立ちます。一音一音が細切れで、モーツァルトというよりウェーベルンみたい。ギーゼキングやヘブラーのモーツァルトを聴いて育ってきた世代には、何とも無味乾燥に聴こえてしまいました。ハッキリ申し上げて、私はこういうピアノは大嫌いです。

メインのショスタコーヴィチ。細かいことは触れませんが、私にとっては如何にも長く、重く、退屈な時間でした。
私にとってショスタコーヴィチの第7と言えば、テミルカーノフ/読響、ラザレフ/日フィルの名演が双璧ですが、どちらも寸時たりとも作品の長さは感じませんでした。実際に70分はかかる大作ですが、二人とも退屈さとは無縁な緊張感を巧みにコントールしていたことを思い出します。
ところがイェンセン、若いと言えばそれまででしょうが、オケを鳴らすことは凄まじいのですが、全体を把握する構成力と言うのか、緊張感が続かないのです。オケが鳴れば鳴るほど、“いい加減にしてくれ”という苛立ちに繋がってしまう。

当夜は蒸し暑い上にホールも空調を利かせておらず、淀んだ空気が災いしていたのも事実。それにしても長かった!! “ショスタコーヴィチは黄土色の土壁みたいな音楽が嫌い”という知人がいますが、この演奏ばかりは援護できませんでした。寧ろ賛同したい位。クラシック音楽を聴くのは拷問だ、とさえ思ってしまいます。
ということで残念な感想になってしまいました。ピアニストも指揮者も、もう一度聴きたいとは思いません。

 

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