読売日響・第456回定期演奏会

昨日は今年の読響聴き初めでした。テオドール・グシュルバウアー指揮によるシューマン・プログラム。詳しい曲目はコミュニティにあるので省略。コンサートマスターはデヴィッド・ノーラン、フォアシュピーラーは小森谷功でした。

大変見事なシューマンでしたね。グシュルバウアーはこれまでも聴いていました、しかもシューマンだったのですが、こんな鮮やかな印象を持っていなかったのが不思議なくらいです。
最初の序曲からして気力の漲ったもので、終結へ向けての感情の高まりには目を瞠ります。どうしちゃんだろう、この人。という意外な驚き。

次の第1も同様、決してフロックではないと確信しました。
休憩時にシュロス ファルケさん、カンタータさん、常連のK嬢と歓談しましたが、皆さん同意見でした。私だけの撹乱ではなかったようです。

後半は珍しい「悲劇」。初めて聴くもので、しかも短い作品。印象が薄かったか、というとそういうことはありません。そのまま第2を演奏する前に、チョッとした箸休めの効果がありましたね。
これが最後の第2を更に引き立ていたことは明らかでしょう。

それにしても第2、素晴らしい演奏でした。特に第1・2楽章の推進力には圧倒されます。
冷静に振り返ってみると、この演奏は二つの点で成功していたと思います。

第1。シューマンの音楽は、情感が完全に燃え尽きず、グスグスと燻っているようなところがあります。それが実によく表出されていましたね。読響の中音域が極めて充実しているので、この感じが巧く出ていたのじゃないでしょうか。

第2。シューマン独特の色彩感が、読響の音色に物の見事に嵌っていたこと。例えば「緑色」を例にとると、一口に緑といっても、色彩は様々です。新緑の山を思い浮かべれば判るように、樹種によって緑は全て違います。
シューマンの場合、音を原色で使うのでなく、例えばヴァイオリンとフルートを重ねることによって、ヴァイオリンでもフルートでもない音色になります。その組み合わせが真に多様でしょう。
色彩が豊か、というと様々な原色が散りばめられている様子を連想しますが、ここでは単色でありながら微妙な色合いがあり、千変万化していく、という意味での色彩の豊かさ。それが実感でした。

帰り際に知人も絶賛されていましたが、この日の聴衆にとって極めて満足度の高いコンサートであったのは間違いないようです。
なお、第1・第2交響曲とも、第1楽章提示部の繰り返しを実行しておりました。

 

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