読売日響・第551回定期演奏会

読響の9月定期は、恐らく同オケ今シーズンのハイライトでしょう。2010年に常任指揮者に就任したカンブルランが長年温めていた構想、オペラを演奏会形式で取り上げる機会が遂に実現したからです。
日曜日の午後3時に開演し、終了は夜8時頃という長丁場。この定期の他に翌週の名曲シリーズ(同じサントリーホール)でも上演が予定されており、チケットは既に完売という人気でした。
二度の休憩を入れて5時間という、ほぼサントリーホール貸切の日曜日、夜は豪雨という予報もある中、意を決して会場に向かいます。

ワーグナー/楽劇「トリスタンとイゾルデ」全曲(演奏会形式、字幕付き)
指揮/シルヴァン・カンブルラン
トリスタン/エリン・ケイヴス
イゾルデ/レイチェル・ニコルズ
マルケ王/アッティラ・ユン
ブランゲーネ/クラウディア・マーンケ
クルヴェナル/石野繁生
メロート/アンドレ・モルシュ
若い水夫、舵手、牧童/与儀巧
男声合唱/新国立劇場合唱団(合唱指揮/冨平恭平)
副指揮/ティル・ドレーマン
コンサートマスター/長原幸太

なるほどワーグナーの楽劇とあって、客席はいつもとは異なる雰囲気(男性トイレだけに長い列!)。苦手な女性陣に替って、ドブネズミ色の男性ワーグナーおたくたちが集結している印象です。カメラも入って、ほぼ満席。
会場に入ると、プログラム誌に挟まって2枚のチラシが気になります。一つは9月に入って直ぐに定期会員に葉書で案内があったイゾルデ役の交替に関するもの。予定されていたクリスティアーネ・イーヴェンが重度の咽頭炎のため出演できず、レイチェル・ニコルズが歌うということ。実績のある歌手の不参加は残念ですが、歌い手は肉体そのものが楽器。オペラには付き物のアクシデントで、止むを得ないでしょう。

もう1枚は、カンブルランが任期を更に延長し、2019年3月まで読響を率いることが決定したいうこと。通算で3期9年になりますが、今回の集大成とも言うべき「トリスタンとイゾルデ」の更に先もあるということで、カンブルラン・ファンが叫ぶ快哉が聞こえてきそう。チラシにはマエストロからのメッセージも掲載されていました。

ということでワーグナーの傑作。「トリスタンとイゾルデ」の全曲演奏会形式上演は、私の記憶ではアルミンクと新日フィル、チョン・ミュンフンと東フィルもチャレンジしたと記憶していますが、残念ながら私はどちらも聴いておらず、久し振りのナマ体験となります。
トリスタンと言えば専らフルトヴェングラーのLPで育った世代。あの5枚組10面は、1枚目の表裏が1面と10面という珍しい組み合わせで、プレイヤーを2台用意すれば連続再生も可能だったということを懐かしく思い出します。

実際の公演は、ベルリン・ドイツ・オペラが若きマゼールと日生劇場で上演したものをテレビ中継で見たのが最初。全編ほぼ真っ暗な中で、歌手はほとんど動かず、特に第3幕ではトリスタン役のハンス・バイラーが長々と巨体を横たえていたのを思い出しました。
当時の私はワーグナーの毒に侵されていた真っ最中。クラシック音楽のファンは、多かれ少なかれワーグナー病を経験しているのではないでしょうか。幸いそこから抜け出した人、生涯虜になってしまう人など様々ですが、最初から拒否反応を示して、結局未感染のままと言う人は、特に男性では希少価値じゃないでしょうか。
私は抜け出した口だと思っていましたが、今回の演奏に接し、再び毒を飲まされた印象。ワーグナー熱が再発したのではと危惧しているところです。

その感染源は、やはり当日のプログラム誌にも解説(三宅幸夫氏)されていた、作品に内在する「謎」にあるでしょう。この巨大作品を読み解くのは至難の業ですが、思い付いたことを何点か備忘のために書き残しておきます。

先ずは場面設定ですが、アイルランドのイゾルデ姫がトリスタンに導かれてコーンウォールに向かう、とあります。最後はトリスタンの故郷ブルターニュの城。
この3つの地点を改めて世界地図帳を広げて確認すると、確かにブルターニュ半島はイギリス海峡を挟んでイギリスのコーンウォール半島と南北に接しています。更にコーンウォールはケルト海を隔ててアイルランドと直面する。この位置関係を頭に入れて聴けば、トリスタン物語により親近感が沸いてくるのでした。
更に言えばイギリスとアイルランドの歴史的関係。もちろん両国は対等ではなく、イギリスがアイルランドを搾取する関係にあったはず。これが英国帝国主義のスタートですが、イゾルデがトリスタン、いやコーンウォール王に抱いている憎しみは、単に許嫁の敵討ちというレヴェルには留まらなかったと想像できるのです。これも謎の一つでしょう。

もう一つは、楽劇の台詞でも明確に語られますが、「トリスタンとイゾルデ Tristan und Isolde」は、間に挟まれている「Und」が単なる接続詞ではなく、大きな意味を持っている、ということ。
作品の全3幕は、極論すれば第1幕はイゾルデの視点で書かれ、第3幕はトリスタンの独白に終始すると言えるでしょう。もちろん愛の二重唱を含む第2幕が「Und」であることは明らか。全体は「イゾルデとトリスタン」という順序で進んでいくのです。

今回の演奏では演出はありませんでしたが、僅かながら恐らくカンブルランの指示と思われる視点が存在しました。それは、トリスタンとイゾルデには常に一定の距離が置かれていたこと。これは第2幕の愛の二重唱の間も守られていて、唯一度だけ二人が接近するのが、マルケ王の面前。これに激したメロートがトリスタンを襲う場面の直前です。
私は、これは出演した歌手が偶然行った演技ではなく、演出的な意図があったのだと確信します。
それは第3幕も同じで、二人が再開する場面。ここでは死にゆくトリスタンが、駆け付けたイゾルデの脇を素通りし、舞台下手に下がって“Isolde!”と唯一言発し、舞台裏に去る。残ったイゾルデが朦朧とした中で愛の死を歌い、全曲が幕。これも本公演の真に印象的な場面でした。

蛇足として謎を付け加えれば、昼と夜は、愛と死であり、麻薬の力で惹き寄せられた二人は夜の世界、即ち死の世界でなければ愛は成就しない等々。
見てしまった、聴いてしまった私は、再びワーグナーの毒を呷るのでしょうか。

演奏会形式ならでは、という聴き所もありました。愛の二重唱での弦楽器の細かいプルト分けの妙。P席で吹かれたイングリッシュ・ホルンは2種類あって、特にイゾルデの到着を告げる太い音色のものはトランペットとオーボエの中間のよう(吹いたのは田島氏?)。この楽器に付いては事前に情報が欲しかったと思います。
カンブルランの指揮は例によって速目のテンポでしたが、ブルックナーとは違って違和感はなく、逆に作品の大きな流れを創って見事。特にオーケストラの透明感に主眼が置かれているようでした。
2幕でトリスタンが登場する場面でのオケのダイナミクスにも、歌劇場で仕事をしているマエストロならではの緻密な配慮があって感心させられた点。ワーグナー作品では、特に歌手の負担を軽減させることが重要てす。

主役の二人は特に声量に恵まれている方ではなく、カンブルランの適切な配慮によって大役を克服しました。脇役というか、主役二人を支える5人も適材適所で、特にマルケ王の存在感は圧倒的。終演後の拍手歓声もユンが一番大きかったのではないでしょうか。
クルヴェナルの石野は確かアルミンクとも同じ役で共演していたはずで、声量もドイツ語も日本人離れした堂々たるもの。最早オペラ界は、西洋とか東洋という枠を遥かに超えてしまったことに改めて気付かされます。来年9月に予定されている二期会公演のトリスタンも行かなくては・・・。

 

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