読売日響・第552回定期演奏会

9月はトリスタン全曲という大胆なプログラムを披露した読響、続く10月定期でも真に意欲的な演目で聴き手の好奇心を刺激します。首席客演指揮者・下野竜也ならでは、いや、彼でなければ取り上げないような作品を並べて勝負に出ました。
それは、

ベートーヴェン/序曲「コリオラン」
ヒンデミット/白鳥を焼く男
~休憩~
ジョン・アダムス/ハルモニーレーレ
指揮/下野竜也
ヴィオラ/鈴木康浩
コンサートマスター/小森谷巧
フォアシュピーラー/長原幸太

ヒンデミットとアダムスという名前を見ただけで敬遠した人、パスを決め込んだ定期会員も少なくなかったであろうことは残念ですが、こういう演奏会を積極的に聴かなければコアなオーケストラ・ファンとは呼べないでしょう。
冒頭のベートーヴェン以外は知らない、という会員がほとんどでしょうが、このプログラミングには壮大な仕掛けが施されています。そこに気が付けば、好き嫌いは別にして出掛けよう、という気持ちになる筈ですが・・・。

今回の3曲、曲名に騙されるかもしれませんが、実はヒンデミットはヴィオラ協奏曲そのものであり、アダムス作品も3楽章形式の「大交響曲」。管弦楽の演奏会としては、昔ながらの序曲→協奏曲→交響曲という典型的なパターンを踏襲したといえるでしょう。
更に下野も指摘しているように、この3曲には調性的な繋がりもある。即ちベートーヴェンは♭3つのハ短調であり、ヒンデミットはハ長調で始まる楽曲。最後のアダムスも♭3つの変ホ長調で閉じられるという構成になっており、言わばコンサート自体がアーチ型に組み立てられているのですね。
ベートーヴェンの作品だけを集め、コリオラン→第1ピアノ協奏曲→エロイカ交響曲と並べたプロと何ら変わるところは無い。メインディッシュが時代をずっと下った新しいものと考えれば、聴く方の抵抗も少しは和らぐでしょう。これが料理なら、今まで味わったことの無いレシピだとしても敬遠はしないでしょう? それと同じことじゃないか。

そうして3品を平らげた皆さん、恐らく多くの方が大満足だったのではないかと思慮します。次もアダムスを体験してみたい、とね。

ということで決然と開始されたベートーヴェンに続き、舞台のセッティングが大幅に入れ替えられてヒンデミットの協奏曲へ。読響のソロ・ヴィオラとしてお馴染みの鈴木康浩が、この夜はソリストとして登場します。
作品のタイトルは原語でシュヴァーネンドレーヤー。実はこの題名、昔から違和感がありました。今回は「白鳥を焼く男」と表記されていましたが、私が若い頃には「白鳥焼人」と訳されていたはず。でも、白鳥を焼く、ってどういうこと?
ドイツには白鳥を丸焼きにして食べる習慣があるのか(オルフのカルミナ・ブラーナにそんな場面があったっけ)、それを仕事にしている人たちがいるのか? 白鳥を射落として顰蹙を買ったのはパルジファルじゃなかったっけ? 等々。

Schwanendreher を辞書で引いてみると、白鳥は良いとして drehen という動詞には「焼く」という意味は無いようで、回転させるとか、機械のスイッチなどを捻って回すと出ています。白鳥を串刺しにして火の上を回転して焼く人という意味なんでしょうか。
以前何かの文献で、この民謡を演奏する手回しオルガンの取っ手が回るいうことで、その取っ手が白鳥の首を連想させるからだ、という説を読んだことがありますが、何処に掲載されていたのか見付かりません。私見では、「白鳥を焼く男」というのは不適切な訳で、ここは単純に「シュヴァーネンドレーヤー」としておいた方が良いのでは、と思慮します。

文句はその位にして、シュヴァーネンドレーヤー。実態は自身がヴィオラの名手だったヒンデミットのヴィオラ協奏曲で、全体は3楽章。各楽章が民謡をテーマにしており、第3楽章が「あなたはシュヴァーネンドレーヤーではありませんね」 Seid ihr nicht der Schwanendreher ? による変奏曲であることからタイトルに決まったのでしょう。
上記の様にヴィオラの無伴奏ソロがハ長調のコードを奏でて始まる第1楽章は、「山と深い谷の間で」 Zwischen Berg und tiefem Tal 。第2楽章は明快な3部形式で、ヴィオラ・ソロとハープが対話する第1部は「葉を揺らせ、小さな菩提樹」 Nun, laube, Lindlein laube がテーマ、フガートで書かれた中間部が「郭公が屋根の上に止まっていた」 Der Gutzgauch auf dem Zaune sass を主題に使用する親しみ易い音楽を楽しみました。

伴奏の弦楽器にはヴァイオリンからヴィオラまでを一切使わず、チェロ4人、コントラバス3人とスコアに指定されています。これに最小限の管楽器(ただしホルンは3本)とハープ、ティンパニと室内編成のオーケストラが参加。
読響の正指揮者時代からヒンデミットを積極的に紹介してきた下野、今回も緑色の表紙が特徴のヒンデミット全集版を使用し、名手鈴木とのコンビで作曲家の親しみ易い一面にスポットを当てた演奏に徹していました。

そしてメインのアダムス。下野は以前に同じ作曲家のドクター・アトミック・シンフォニーを取り上げたように、共感を覚える作曲家なのでしょう。今回は日本初演ではなく、それから30年振りの再演だそうな。30年前はどのような形で紹介されたのか判りませんが、そんなに長い間リピートされなかったことが不思議な位のマスター・ピースと言えるでしょう。
アダムスは、訪米では絶大な人気を誇る作曲家。プロムスでは毎年の様に作品が演奏されますし、指揮者として自作以外に演奏するマルチ・タレントとして馴染の音楽家。
今回のハルモニーレーレにしても、例えばナクソスの音楽図書館では初演のメンバーであるワールト指揮サンフランシスコ響の録音。同じサンフランシスコ響の現在の首席であるティルソン=トーマスの新録音に、ラトルが指揮したEMI音源、更にはピーター・ウンジャンが振ったシャンドス盤も聴くことが出来ます。

更に予習の手助けになるのが Music Sales Classical のサイトで、この Scores on Demand をクリックすれば、ハルモニーレーレの全曲スコアを閲覧することも可能。私もこの二つを充分に利用して演奏会に臨みました。以前ならスコアを取り寄せ、CDを購入と大いに手間も掛かり散財も覚悟でしたが、便利な世の中になったものです。

タイトルのハルモニーレーレには「和声学」という訳を付けるより、シェーンベルクが2011年に出版した音楽理論書のタイトルから採ったものですから、ヒンデミットと同様に「ハルモニーレーレ」と直に呼んだ方が良いでしょうか。
シェーンベルクの著作は前年に亡くなったマーラーに捧げられていますから、アダムス作品の中にもマーラーの引用が登場してきます。

また、これはアダムスがサンフランシスコ響のレジデンス・コンポーザーを務めていた当時(1982-1985)の作品で、作曲当時に見た夢から着想した、とも言われています。
その夢とは主に二つあって、一つはサンフランシスコ湾から巨大オイルタンカーが空中に浮かび上がる、というもの。もう一つが自身の娘(愛称クアッキー)が中世の神学者エックハルトと戯れるというもの。この夢にユングの理論を絡ませ、音楽が次第に形を成して行ったのだそうです。

全体は3楽章で構成され、第1楽章にはタイトルがありませんが、第2楽章は「アンフォルタスの傷」、第3楽章にも「マイスター・エックハルトとクアッキー」という表題が付せられています。
第1楽章はアダムスの出発点であったミニマル・ミュージックから発展した激しい音楽で、チェロがメロディーと思われるもの(ちょっとリヒャルト・シュトラウスを連想させる)を奏する中間部を挟んだアーチ形の3部形式。
このダイナミックな音楽は、第3楽章の最後にも姿を現し、「交響曲」全体のアーチ構造を意識させます。第3楽章の冒頭は、子供の夢を象徴するような子守歌がベースと言えましょうか。激しい終結部は、若きストラヴィンスキーを連想させるよう。

しかしハルモニーレーレの核心、作品の最大の聴き所と言えるのが第2楽章でしょう。ここでは後期ロマン派、印象主義音楽の名作からの引用がいくつか登場します。その意味ではパロディー楽章と呼んでも良いのかも知れません。
最初に低音が唸るのは、明らかにシベリウスの第4交響曲の冒頭部分と聴きました。これが一段落すると、木管の合奏が奏でるのがドビュッシーの夜想曲から「雲」の冒頭。プログラムの解説には「直接の引用はない」と書かれていましたが、ドビュッシーはスコアを見れば判るように、明らかな引用。
このあと音楽はトランペット弱音が奏する歌に移行し、ハルモニーレーレ全体を通して登場する上向音形(2度と3度が主体)が執拗に繰り返されます。

その頂点でトランペットの強奏 ffff を不協和音が断ち切るパッセージが数回出現してクライマックスを創ります。これは正にマーラーの第10交響曲「アダージョ」のクライマックスの引用で、ここを聴いてマーラーを回想しない人はいないでしょう。読響会員ならこのシーンは何度も手に汗を握った経験がある筈。
そして音楽はこれまで上昇してきた高度を一気に急降下、ヴァイオリンの極端な下降グリッサンドを経て低音が唸り、終結部を迎えます。そして最後は静かに「A」音に収斂するのですが、マーラーは「A」を Alma の象徴として使いました。
恐らくアダムスも意図があっての「A」なのでしょう。シェーンベルクのファースト・ネーム Arnold か、あるいは Anfortas か。そうか Adams 自身と言う解釈もありか、なぁ~んちゃって、ネ(笑)。

下野竜也が見事にリードした読響の大熱演もあって、アダムス再演は圧倒的な成功を収めました。次の演奏まで30年を要することが無いように、これが東京だけの事件で終わることが無いように、日本の音楽界全体に要望したいところです。

 

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