日本フィル・第675回東京定期演奏会

ラザレフ颱風が去った直後の日本フィル、今度は次期首席指揮者に就任するインキネンがやってきました。今回は東京定期を二日間、杉並・横浜・相模原で自身のヴァイオリン演奏を含むプログラムを披露し、オーケストラとの新たなチャレンジに挑みます。
その東京定期初日をサントリーホールで聴いてきました。プログラムは、

シベリウス/歴史的情景第1番 作品25
シベリウス/組曲「ベルシャザールの饗宴」
     ~組曲~
マーラー/大地の歌
 指揮/ピエタリ・インキネン
 テノール/西村悟
 バリトン/河野克典
 コンサートマスター/千葉清加
 フォアシュピーラー/齊藤政和
 ソロ・チェロ/辻本玲

今定期、本来はマーラーのソリストとしてフィンランドからヘレナ・ユントゥネンが招かれる予定でしたが、アフタートーク(土・日共にインキネンのトークがあります)でも触れられていたた様に、ユントゥネンは第二子を出産するため来日が適わず、当初予定されていた交響詩「ルオンノタール」(ソプラノのソロが入る曲)がベルシャザールに変わるという経緯がありました。
インキネンも約束していましたが、ユントゥネンをソリストにしたルオンノタールが近い将来に復活することは間違いなさそうです。

インキネンはマーラー作品をシリーズとして取り上げてきましたが、組み合わせるのは常にシベリウス、それも滅多に演奏されない佳曲を組み合わせるという方針を貫いています。加えて今年はシベリウスの生誕150年でもあり、プログラム前半は≪シベリウス生誕150周年≫、また後半が≪マーラー撰集≫第6弾と銘打たれていました。
偶然も重なりましたが、シベリウスには珍しい東洋の雰囲気やスペインの気配を、マーラーには中国の題材と、「音楽世界巡り」的な要素も加わる聴き所満載のプログラムと言えましょうか。

その音楽世界旅、先ずはシベリウスから。今回演奏される2曲はその存在すら余り知られていなかったもので、もちろん私はナマでは初体験です。貴重な機会ですから、作品についても少し立ち入りましょう。
歴史的情景とタイトルの付いた作品は二つあり、インキネンは今回の来日で2曲とも指揮する予定です。即ち東京で第1番、横浜や杉並などで第2番。両方聴けばこの曲集を完全制覇したことになりますので、特にシベリウス好きのファンはどちらも聴き逃せません。
2曲は初演も出版も同時でしたが、作曲の経緯は別。第1番は作品25ですが、第2番には遥かに離れた作品66が振られていることがその証拠でしょう。

第1番に付いていえば、当時世紀末のフィンランディアではロシアの圧力が高まり、その抵抗勢力が密かに反露運動が続けられていました。1899年の正に11月初旬、その催しの一つとして、職を奪われたジャーナリストたちを支援する「年金祝賀会」なる催しが開かれます。シベリウスはこの催しのため管弦楽用に7つの小品を書きましたが、最後の第7曲が大変な評判と同国民の愛国心を呼び覚まし、「フィンランディア」として独立したことは夙に有名。
しかしブライトコプフ出版社が残る作品についても価値を認め、それを忘れていたシベリウスを促して管弦楽組曲として纏めたものがこれ。オリジナルの7曲から第1・4・3曲を、夫々「序曲風に All7 Overtura」「ある情景 Scena」「祭り Festivo」として出版しました。オリジナルの曲集が大国に蹂躙され続けたフィンランドの歴史をテーマにしたものだったため、「歴史的情景」というタイトルが付けられたのです。
作品は如何にもシベリウスの語法に満ちたもので、フィンランディアの延長線として聴けば良いでしょう。特にファゴットが活躍するメヌエット形式による第2曲、珍しくカスタネットが使われるボレロのテンポによる第3曲などは理屈抜きに楽しめました。

続くベルシャザールも珍品の一つ。こちらは同名の劇のための付随音楽ですが、歴史的情景よりずっと小振りな編成のために書かれた4つの小品から成ります。最初の作品より遥かにシベリウスの体臭が濃いものでしょう。
因みに生誕150年の今年は英国の音楽祭プロムスでもシベリウス特集が組まれ、ベルシャザールはその初日「プロムス・ファースト・ナイト」でもウォルトンの同名作と共にサカリ・オラモ指揮BBC響によって演奏(これがプロムス初演でした)されました。それもあって私は楽譜無料サイトからスコアをダウンロードし、散々予習したばかりでしたから、今回のナマ初体験は実に懐かしい思い出になりましたね。譜面を見たい方はこちらからどうぞ↓

http://imslp.org/imglnks/usimg/f/ff/IMSLP15890-Sibelius_-_Belshazzars_Feast__Op.51__orch._score_.pdf

予習の際にも感じたことですが、今回初めてナマ演奏に接すると、各楽章の「東洋風の行進」「孤独の歌」「夜想曲」「カドラの踊り」というタイトルよりも、ある情景が目に浮かびます。
それは大自然の綾なす四季一つ一つの風景で、夫々「夏の気怠い朝」「桐一葉」「雪と氷の風景」「春の兆し」とでも名付けたい音楽たち。特に秋を連想させる第2曲のヴィオラとチェロのソロ二重奏を支える僅かな弦楽のアンサンブル。凛とした空気感漂う第3曲はシベリウスそのものでしょう。
最弱音を大切に愛おしく振るインキネンと、日フィルの何処までも済んだハーモニーと繊細なアンサンブルは、ラザレフとは対照的なインキネン・スペシャル。フィンランドの自然と、日本のそれとが幸福な融和を実現した瞬間でもありました。何も大きな音で威圧することだけがオーケストラ音楽の醍醐味ではない、と。

メインはマーラー。ここでもインキネンは彼の美質、透明な音色と爽やかなアプローチで若々しい大地の歌を聴かせてくれました。しかし、これは「大地の歌」。そこには若干のもどかしさも。

時は2003年、それも11月7日とほぼ12年前のこと、心機一転新たなスタートを切った広上淳一が、NHKホールでN響と「大地の歌」を演奏した定期がありました。
そこで彼が振ったマーラーは、私にとっては無二の思い出。マーラーの苦悩と厭世観を徹底的に掘り下げ、最後の最後で晴れやかな開放を謳い上げた「あの演奏」こそが、私にとっては大地の歌のスタンダードになってしまいました。流石のインキネンも、この高い壁を超えることは出来なかったようです。

もっと具体的に作品の肝とも言うべき箇所を指摘すると、第6曲「告別」。この楽章は極めて複雑な構造ですが、敢えて解き解せば、「A・B・A・C・A・B・C」の7部構造と見ましょう。
その最後のC(最初のCの変奏とも考えられますが)に入る直前、練習番号58の直前、第459小節に登場する「ミ音」のフェルマータこそが作品の核心。ここから音楽は4分の3拍子にどっと流れ込み、歌が「愛しい大地 Die Liebe Erda」と歌い始めます。

このフェルマータを、広上は永遠に終わらないのではないかと思われるほど長く、長く引っ張り、究極のクレッシェンドで聴き手を開放に誘ったのでした。
インキネンはアフタートークでもこの作品のメッセージを、最後の別れはポジティヴなもので、先に希望が開けるものと解釈していると語ってくれました。その通り、マーラーの苦悩は、最後に救われるのが大地の歌でしょう。

しかし現在のインキネンは未だ若く、彼にとっては当作品の初めての指揮だった由。絶望感から希望への転換を完璧に表現するには、未だ若いとしか言いようがありません。
この曲のこの個所を「あの演奏」のように表現するには、辛酸を嘗め盡した指揮者の棒にのみ可能だと思慮します。何度もどん底まで叩かれ、その度に絶望の苦しみを味わい、それでも尚立ち上がってきた広上だからこそ、あのようなマーラーが表現できたはず。若い指揮者、順風満帆のキャリアを積んできた人間には無い重みこそが必要なのが、「大地の歌」ではないでしょうか。

 

Pocket
LINEで送る

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください