二期会公演「ワルキューレ」
私はオペラに特別な愛着を持つ人間ではありません。「音楽」には違いありませんが、「劇場」という要素の方が勝るケースが多く、いわゆる器楽のコンサートなどとは別世界と考えてしまう癖があります。従ってオペラ生体験は決して多くありません。
もう一つ、ワーグナーの楽劇に関しては、どうしても日本人には生理的・体力的に征服困難という偏見があって、どうしても引いてしまう傾向があります。日本人の声帯は、本来ヨーロッパ人のものとは太さも質も違い、ワーグナーには不向き云々、といった類のことです。
ですから今回の「ワルキューレ」、最初はパスする積りでした。しかし公演が近付いてから考えを変えました。飯守泰次郎の指揮するワーグナー舞台上演を聴き逃がすのはマズイ、と。ためにチケット入手が遅れ、今回は1階ながら中央右隣のブロック、16列の25・26番という座席でした。それでも中々良い席で、視覚的にも音響的にも満足のいくシートです。
以上の前提ですから、オペラにはズブの素人の感想として受け取って下さい。
その上で、これは素晴らしい公演でした。かつて「ワルキューレ」にこんな感動したことはありません。
何と言っても特筆大書すべきは、やはり飯守泰次郎の存在です。彼の紡ぐワーグナーは、昨今の若手指揮者のそれとは大いに違い、緻密で内容が濃く、マエストロの譜読みの確かさと深さがひしひしと伝わってくるもの。バイロイトを筆頭に世界中のオペラハウスを探しても、現在これだけのワーグナー公演を実現できる指揮者は皆無ではないでしょうか。ズバリ、私の中では現役最高のワーグナー指揮者です。
しかし指揮者一人ではどうにもならない部分もあるのも事実。今回のピットは東京フィル。正直に告白すれば、もう少し弦に厚味が欲しいし、合奏の制度にも更なる緻密さがあれば、と感じました。ホルンとトランペットには、より高い技術的レヴェルが必要でしょう。しかしワーグナーに欠かせないオーボエ、イングリッシュホルン、クラリネット、バスクラリネットなどの木管群は素晴らしいソロを聴かせてくれましたし、ワーグナー独特の寂莫たる世界が出現していたことは讃えなければいけません。全体として、オーケストラも大健闘だったと評してよいと思います。
ピットを覗いたところ、ハープは2台、コントラバスは3プルトというサイズでしたが、これは物理的な制約上、止むを得ないことでしょう。むしろこれを逆手にとって、飯守がより室内楽的に精緻なアンサンブルを目指し、歌手の負担を軽減することによって見事なバランスを作り出したことを指摘しておきたいと思います。
歌手については、主役6人の名前を記しておきます。私共が聴いたのは、ダブル・キャストのうち、いわゆるA組でした。
ヴォータン/小森輝彦
ブリュンヒルデ/横山恵子
ジークムント/成田勝美
ジークリンデ/橋爪ゆか
フンディング/長谷川顕
フリッカ/小山由美
歌手の力量や出来については深く触れません。そもそも完璧なキャストなどあり得ないし、全体のバランスこそ大切だと考えているからです。
その上で敢えて触れれば、全体的に女性群が素晴らしい出来でしたね。特にフリッカとブリュンヒルデの存在感は圧倒的で、声の安定、舞台姿の堂々たること、ドイツ語の見事さ。どれをとっても国際的に通用するフリッカであり、ブリュンヒルデだと思いました。
ジークリンデもまた新鮮。時にムラもあったようですが、役に相応しい声の質と演技だったと思います。
ジークムントとフンディングは共に大ヴェテラン。日本のワーグナー上演には欠かせない二人でしょう。今回も夫々のはまり役、シッカリと存在感をアピールしていました。
やや不満を覚えたのはヴォータン。まだ若い人ですし、実力はあると思いますが、ヴォータンには違和感がありました。声の質に重さと深さが不足気味。しかしこれは現時点での感想であって、今回は大きな経験を積んだ、と評価したい気持ちです。
いや、むしろ、彼のヴォータンがあってこそ、という解釈も成り立つ「ワルキューレ」でした。ヴォータンはフリッカに論戦で負け、娘のブリュンヒルデにも最後の最後でその情に負ける。このヴォータンだからこそ、意思を貫き通せない弱さを曝け出す神々の長、という設定に説得力が感じられたのでしょう。怪我の功名と言ったら失礼でしょうが・・・。
最後に演出。今回はベルギーからジョエル・ローウェルスを招きました。モネ劇場でアシスタントを務めたあとリエージュでデビュー。以後、ダブリン、ザルツブルグ、アイルランド、パリ、コペンハーゲン、スイス、ザールブリュッケン、ニース、モンペリエなどで活動している42歳の若手です。絵も描くそうで、84年からの4年間は様々な絵画展にも出展した経験もある由。今回が日本デビュー。
演出という分野は、特に最近では評価が割れますね。今回の世評がどうなるのかは判りませんが、私には極めて面白い、よく考えられた演出だと思われました。
そもそも私が当初あまり期待せず、何の予習もないまま出掛けたのが悪いのですが、ローウェルスの演出を充分に咀嚼できていないのが現状。できればもう一度見て確認したいのが正直なところです。
ローウェルスの「ワルキューレ」はかなり細かく、現実的な演技を要求していたように感じられました。全て象徴的に扱い、何も演技しないというのとは対極。
更に、これまで音楽だけで象徴的に暗示していた場面にも、台本にない登場人物を出して、作品に馴染みのない聴き手にも「解説」を加えたりする。
具体的にどこか、と言われても一部しか思い出せないのですが、例えば前者の例としては、ジークリンデがフンディングの寝酒に眠り薬を入れる演技。これが客席でもハッキリ確認できる。
後者としては、ジークムントとジークリンデの密会を、フリッカが見つけてヴォータンに注意を促す場面。大詰めで、岩山に登るジークフリートの姿を見せてしまう等々。
確かに「説明」にはなるのですが、初めて見る人には返って混乱させる原因にもなったでしょう。現に家内はワーグナー嫌い。何の知識もないまま初めてワルキューレに接したため、幕間では“あれは誰? 今のは何?”の質問攻め。私本人はオペラ鑑賞というより、オペラ解説が大変でした。ふぅ~~。
ということで、この演出はリングを知り尽くした人のための上級者向け演出という感想を持ちました。
しかし全体としては、音楽の流れに沿った演出。単なる思い付きや、奇を衒ったものとは違うと思います。緻密な配慮が行き届いているのです。矛盾を露呈するマイナスがある一方で、音楽の流れをより説得させるプラスもある。全体としてプラスがマイナスを遥かに上回っていたでしょう。
激しい序奏とともに舞台が挙がると、ダンサーと少女が登場して客席を驚かせます。予備知識がない私は、いきなりのことで戸惑うのですが、最後にダンサーが再び登場。これがローゲであることに気が付くのです。(この役は、桜観(さくみ)という才人)
ブリュンヒルデが最後の告別を宣し、自ら岩山に登ったあと、少女がヴォータンに駆け寄り、二人がシッカリと抱き合います。しかしこの少女は誰か?
少女はブリュンヒルデの少女時代、という解釈も出来るでしょうが、私はこう考えました。
ヴォータンは神でありながら、心の底には極めて人間的な感情を抱えている。神であるが故にそれを表に出せず、押し殺して「長」に君臨してきた。しかし遂にヴォータンがブリュンヒルデに説得され、彼女を炎で囲む決断、愛する娘に対する父親としての決断をする。ヴォータンの深層に潜んでいた「人間性」、言い換えれば「愛」そのものの象徴が少女の姿なのではないか。
この終幕の感動に私は涙が止まらず、「ワルキューレ」で泣く、という極めてレアな体験をさせてもらいました。そう、ハンカチ3枚が必要なワルキューレ。
1枚はワーグナーの作品そのものに対し、2枚目は飯守泰次郎の指揮に対し、そして3枚目は、東洋人だけというハンデを利点に変え、東京でしか体験できない、なおかつ本場を凌ぐとさえ言い切れるほどのワーグナー舞台を実現させてくれた関係者全てに対し。
カーテンコールでマエストロに大喝采が贈られたのは当然。演出家ローウェルスも登場してブラヴォ~を受けていました。私が聞いた限りでは、ブーはありません。
尚、この日の公演にはカメラ収録が入っていました。カメラの台数の多さから判断して、記録用のものではなく、いずれ放送されるものと思われます。
その際は見落とした場面、忘れてしまった場面、気が付かなかった場面をシッカリ反芻する積りです。スコアと首っ引きで。
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