サルビアホール 第55回クァルテット・シリーズ

前日の鵠沼に続き、昨日は鶴見でクァルテット。このところ神奈川県方面にばかり足が向いているメリーウイロウです。
シーズン17の2回目は、去年2月に続いて早くもサルビア二度目の登場となるクァルテット・ベルリン=トウキョウ。これまで複数回出演しているクァルテットもかなり増えてきましたが、1年以内に二度と言うのは恐らく新記録じゃないでしょうか。

もちろん前回の評判が極めて良かったためでしょうが、理由は他にもあるようです。それは、彼らが去年7月にオープンした札幌の六花亭ホールでレジデンス・アンサンブルを務めており、聞いた所では毎年1月と7月が来日スケジュールの由。
先月には札幌で連日の2公演を開催しており、その機会に前回も好評だった鶴見で、というのは自然な成り行きでしょう。因みに今回は札幌と鶴見の他では岡山、多摩で演奏会があったそうな。つまり東京都心では聴けないという珍現象でもありました。

ここからは私の勝手な私見ですが、最近では東京のど真ん中に鎮座していては楽しめない公演が増えてきているように感じます。従来の東京一極集中が崩れて来たのではないか?
とかく芸術・文化は一般的な社会現象を先取りする傾向があります。世の中の変化は政府が法律を施行したり、省庁からの命令などで動くものではなく、一般市民の行動が事実として積み上がって行くのが本当の歴史。文章や記録で事実が記載されるのは、既にその事実が以前から普通に行われてきた、と見るべきでしょう。
その意味でも、昨今の音楽界のあり方が今後の姿を先取しているように思えてなりません。北は北海道、南は九州、そして古は都だった京都が、将来の文化発信地になることは間違いなさそうです。そして何と言っても東京のライヴァルは神奈川。これからは東京を離れ、地方へ地方へと遠征しなければ今旬な音楽は聴けなくなるかも、なぁんちゃって。

で、漸く本題。前回は細川作品を挟んでハイドンとベートーヴェンというプログラムでしたが、今回は以下のもの。去年衝撃的な演奏で度肝を抜いたハイドンでスタートするのは今回も同じです。
メンバーや略歴については去年2月、第43回のレポートで詳述しましたから今回は省略。

ハイドン/弦楽四重奏曲第62番ハ長調作品76-3「皇帝」
ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第11番へ短調作品95「セリオーソ」
     ~休憩~
バルトーク/弦楽四重奏曲第6番

今回の3曲、全てサルビアでは既に何度も取り上げられてきた作品で、先日も皇帝はパノハ、セリオーソも澤で聴いたばかり。バルトークも何と今回がサルビアでは3度目と言う王道プログラムですが、一つ一つ聴いて行くうちに、彼等の意図が見えてくるような仕掛けが施されていることに気が付きました。
先ずハイドン。今回のサプライズは、珍しくも第1楽章後半の繰り返しを実行したことでしょう。普通は長くなりすぎるためにここは省略、というのが常識的な演奏でしょうが、実はコーダでファーストがカデンツァ風に駆け上がった後、ハイドンは「二度目に繰り返すときはテンポを速めて」という指示を書き込んでいるのですね。
この指示を忠実に実行することにより、ハイドンの意図がより活きる。QBTのこの処理に先ず拍手喝采を捧げましょう。

続いては有名なドイツ国歌による変奏曲。これも何でもない典型的な変奏と聴いてしまえばそれまでですが、彼等の演奏からは特別なメッセージが伝わります。
作曲する力が衰えた最晩年のハイドンは、自身が作曲して後に国歌にもなるこの旋律を口ずさむのが日課だった、と聞いたことがあります。ハイドンにとっては到達点のメロディーを、QBTは深い哀しみを湛えて弾きました。メインのバルトークは「メスト」。最初のハイドンに、彼等はメストを感じ取ったのかもしれません。
喜悦と悲哀の対照、それは第3楽章にも共通していて、長調のメヌエットと短調のトリオを鮮やかに弾き分けます。

なおハイドンに留まれば、第4楽章がハ短調であることに改めて気が付きます。皇帝四重奏の主調はハ長調ですが、終楽章は主調が採用されるのが普通でしょ。ところが敢えてハイドンは短調を選んだ。
そしてコーダ、漸く音楽はハ長調に回帰し、何も無かったように明るく作品を閉じます。繰り返しになりますが、QBTの調性変化を極めて明確に表現する演奏は、明らかにハイドンの意図を深く読み解いたうえでのパフォーマンスだったに違いありません。作品を徹底して分析し、それを率直に聴き手に伝える、それがクァルテット・ベルリン=トウキョウの特色と言えそうです。

この姿勢はベートーヴェンにも共通していて、セリオーソのタイトルの如く厳格な表現を貫いたQBT、第4楽章のコーダで突然音楽はへ長調に転じ、一気に歓喜の頂点に突入するのでした。この劇的な変化が、QBTで聴くと奏者たちの表情を通して明快に伝わってくる。
短調から長調への激変、これは皇帝と同じパターンで、ベートーヴェンが師から学んだ書法の一つでしょう。ここまで聴いてくれば、今回のQBTのプログラミングの目指すところは明らかです。

そしてメインのバルトーク。ハンガリーで書かれた最後の作品で、このあとバルトークはアメリカに亡命。極貧のうちに白血病で死去する運命が待ち受けていたのですが、それを暗示するような終楽章までが、極めて高い集中力の元で間然とする所なく演奏されました。
ここでは磨き上げられたテクニックと、作品に対するアナリーゼがバランス良く溶け込み、札幌でも計画しているというバルトーク全曲への堂々たる第一歩を踏み出したと言えそうですね。札幌から発信される新たなバルトーク像、そのおこぼれを一つでも多く鶴見でも体験させてもらいたいものです。

前回は予定外だったアンコール、今回は予め準備されていたもの。ファースト守屋が簡単なアナリーゼを紹介して演奏されたのは、今年90歳になるクルタークの「12のミクロリュディアン」作品13。
クルタークはバルトークの後継者を任ずるハンガリーの作曲家で、タイトルの数字12は、12の音を意味する由。主調が半音づつ上昇し、第10曲?には尊敬するバッハの音名 BACH が密かに登場するというもの。各楽章が1分にも満たない小品で、私にとってはこれが聴けたのは望外の喜びでした。

因みに札幌での2夜、一晩は鶴見と全く同じプログラムでしたが、もう一つはアメリカ、モーツァルトの二短調、シューマンの3番。流石に1月の札幌行は厳しいものがあって断念せざるを得ませんでしたが、こちらも聴きたかったというのが本音です。
演奏終了後はサイン会の行列が出来るサルビアですが、この日は無し。そろそろCD録音が欲しいQBT、それがあればファンとの交流も更に親密になるでしょうに・・・。

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