日本フィル・第680回東京定期演奏会

ラザレフ漬け6月の日フィル、その最終回が爽やかな初夏、サントリー・ホールで行われた東京定期。先週は横浜でモーツァルトとベルリオーズで他の指揮者とは全く異なる解釈で聴き手を唖然とさせたラザレフですが、東京では十八番のロシアの魂をぶつけます。
残念ながら首席指揮者としては最後のシーズンになりますが、就任以来続けてきた「ロシアの魂」はシーズンⅢ、ショスタコーヴィチの交響曲撰で5曲目を披露してくれました。このシリーズ、首席を降りてからも未だ未だ続きます。

チャイコフスキー/組曲第1番ニ短調作品43
     ~休憩~
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番ロ短調作品54
 指揮/アレクサンドル・ラザレフ
 コンサートマスター/木野雅之
 フォアシュピーラー/千葉清加
 ソロ・チェロ/辻本玲

各オーケストラともシーズンが終わりに近づくと次期の定期ラインナップを発表するのが慣例。日フィルの場合はシーズン半ばに早々と速報が出されますが、今シーズンで真っ先に心躍らせたのがこの回でした。
ショスタコーヴィチはもちろん、長い間ナマで聴きたいと思っていたチャイコフスキーの組曲が聴けるからです。

期待に胸ふくらませて出掛けた定期、やっぱりチャイコフスキーは良かった、もちろんショスタコーヴィチも。そしてラザレフは凄かった。いつかはチャイコの第2組曲もやって下さい、マエストロ!!

ということでチャイコフスキーですが、4曲ある組曲は第4交響曲と第5交響曲の間に全て纏めて書かれたもの。新たな交響曲の世界に船出すべく、様々なアイデアを試みた興味深い作品群なのです。
今回のプログラム・ノートは渡辺和氏の担当で、流石にフランツ・ラハナーに言及されていたのには感服しました。チャイコフスキーが手本にしたのが、このフランツ・パウル・ラハナー(1804-1890)。

これは個人的な事ですが、最近N響の古い演奏会記録を調べていて、妙に気になったのが1935年に山田耕筰が指揮した同オケの第159回の定期。10月23日に日比谷公会堂で行われたこの回の最後に取り上げられたのが、ラハナーの第2組曲でした。
この馴染無い作曲家に興味を持ち、ペトルッチで楽譜を探し出し、NMLで音源に当たろうと考えていたのがこの日の朝のこと。何とも奇遇じゃありませんか。
で、ラハナーですが、渡辺氏によれば組曲第1番がチャイコフスキーと同じでニ短調。終楽章(第4楽章)に「序奏とフーガ」が配されているのも同じとのこと。因みにラハナーでは他の3楽章は、前奏曲・メヌエット・変奏曲と行進曲となっています。NMLでは2番は配信されていないものの、1番はマルコポーロ盤が配信中。何れ時間を見つけ、スコアを閲覧しながらチャイコフスキーと比較して見ましょう。

さてチャイコフスキーの第1組曲。楽章は全部で6つあり、どれもチャイコフスキーの個性が良く出ていて、不当に閑却されている名曲と聴きました。
第1楽章の序奏とフーガは82小節もの物々しい序奏に続いてフーガに突入。これが実に見事なフーガで、ラザレフはここぞとばかりに作品の核心を衝いてきます。これまでCDでは聴いていましたが、これほど鬼気迫る表現は体験したことがありません。
各パートの入りに、指揮台に足を踏みつける様な気迫でダウン・ボウを要求。これに食らい付くオーケストラの集中力に先ず圧倒されてしまいました。エッ、チャイコフスキーの組曲ってこんな凄まじい音楽だっけ??

第2楽章のディヴェルティメントは後で追加されたもの。他の5楽章が全て2拍子系であることに気付き、慌てて3拍子のこの楽章を書き足したそうな。それにしてはクラリネット・ソロで始まるワルツ風メロディーが如何にもチャイコフスキー的で、フルート3本が同時に合奏する合いの手も豪華。
ここでも、ファーストとチェロが初めて登場する時のフォルテのパッセージに要求する、ラザレフの気迫の凄さ。チョッと癖になる楽章です。

第3楽章は間奏曲となっていますが、私に言わせればロシア演歌でしょう。ABABAの五部形式ですが、切ないA、それを慰める様なB、どちらも一度耳にしたら忘れられないメロディーで、この耳休めのような楽章でも、クライマックスの fff はまるで交響曲のよう。
第4楽章は小行進曲で、これだけは昔のLPにあったライナー/シカゴ響盤で馴染んできました。ヴィオラ以下の低弦は全てお休みで、トライアングルとグロッケンシュピールが可愛い「くるみ割り人形」の一節を思い出させます。

スケルツォの第5楽章は、悲愴交響曲の第3楽章を先取りする音楽でしょう。弦の細かいアンサンブルと、ピタリと音程の揃った管楽器の遣り取りは、日フィル絶好調をアピールします。
最後の第6楽章はチャイコフスキーには珍しい、ややユーモラスなガヴォット。ラザレフも両の手を交互に振ったりして、ひょうきんな一面を見せます。しかしコーダに入ると何時の間にか様相は一変、第4交響曲のフィナーレを連想させるような三段ギアで音量は最高点に。金管はホルンとトランペットだけで、トロンボーンが使われていないのがウソのよう。実に良く鳴るオーケストラの総奏で全曲が締め括られました。

後半はショスタコーヴィチ。これもプログラム・ノーツに渡辺氏がラザレフの見解を紹介してくれているので、マエストロの解釈が実に良く伝わってきました。
確かに「頭のないシンフォニー」として今までは一つピンと来ない6番でしたが、なるほどこういう作品だったのか、と。

全体の半分を占める第1楽章(ブージー・ポケット版の全曲スコアは150ページもあるのに、第1楽章はたったの25ページ)こそが、その核心部分。ラザレフの演奏で接すると、一つ一つの小節、一音一音が全て意味を持って鳴らされ、情報量の多さに圧倒されてしまいました。
冒頭からして密度の濃ゆ~い鳴り方、ヴィオラのトレモロ上で吹かれるイングリッシュ・ホルンのソロ。そしてフルートのレチタティーヴォは、ラザレフ曰く「歌うところがあり、そこはまるで閉じ込められた魂の歌」なのです。
木管のソロを支える弦のトレモロ、スコアでは pp と指定されていますが、ラザレフのは更に弱音。マエストロは左手で弦に音量を更に落とすような仕草をして、この部分が第6交響曲の「肝」であることを聴衆にも伝えているのでしょう。

この指揮法、私が初めてカラヤン/ベルリン・フィルをナマで聴いた時、ブルックナーの第8交響曲第1楽章の展開部でカラヤンがベルリンのアンサンブルに指示したのと同じやり方でした。
カラヤンのお蔭で、ソナタ楽章の「肝」は展開部にあり、ということを学んだものです。

話を昨夜の演奏に戻すと、第2楽章のアレグロも打楽器群の登場が真に刺激的。
更に、これまで私には単なるドンチャン騒ぎとしてしか聴こえてこなかった第3楽章も、「とても陽気で明るいのですが、心の中が空っぽ」。全曲はロ短調で始まり、ロ長調で終わるという教科書の様な構成ですが、ロ長調という調性は「偽りの明るさ」を表すものの由(ラザレフ弁)。
かつての共産党の幹部にはそんなことは判らなかったでしょうが、心ある、そして耳を持つ聴き手は見せかけのドンチャン騒ぎに騙されてはいけないのです。

それにしても耳から鱗のショスタコーヴィチ。私の様な凡人にはマーラーと同じで情報量が多過ぎ、頭の中は音で溢れかえってしまいました。幸いなことに当夜の演奏を収録するのであろうマイクが林立していました。
いずれ世に出るであろうCDで再確認する必要がありそうです。テレビ・カメラも入っていましたから、何処かで放映されるのかも知れませんね。

モーツァルトからショスタコーヴィチまで読みの深い解釈で聴き手の度肝を抜くラザレフ、毎度のことながら「これぞ真の巨匠」と叫ばずにはおられません。
次は15番か。6番のフィナーレから続けるには持って来いの選曲でしょう。

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