読売日響・第559回定期演奏会

最初に音楽とは関係の無い話ですが、6月24日は朝から報道番組に釘付け。イギリスがEUから離脱するか残留を選ぶかの国民投票で、離脱派が勝利したというニュースを横目に見ながらサントリーホールに出掛けました。
専門家の解説やアンケート調査が覆されたという衝撃の方が大きかったようですが、英国民にしてもトランプ大統領候補にしても世界的に内向き志向が強まるのは、心情的には理解できても気分的には好ましいものじゃありません。

何となく重苦しい心理状態で聴いたのは、読響の6月定期。差し当たってイギリスとは無関係の作品が並んでいました。

ベルリオーズ/序曲「宗教裁判官」
デュティユー/チェロ協奏曲「遥かなる遠い世界」
     ~休憩~
ブルックナー/交響曲第3番(第3稿)
 指揮/シルヴァン・カンブルラン
 チェロ/ジャン=ギアン・ケラス
 コンサートマスター/長原幸太
 フォアシュピーラー/小森谷巧

冒頭はベルリオーズの序曲。ベルリオーズにはこの種の作品が8曲あって、有名なものはローマの謝肉祭、海賊、ベンベヌート・チェルリーニ、ベアトリスとベネディクトの4曲。
一方滅多に演奏されないのが宗教裁判官、ウェイバリー、リア王、ロブ・ロイでしょう。私がナマで宗教裁判官を聴いたのは遥か昔、オーケストラは何処だか忘れましたが、文化会館でルイ・フレモーの指揮で聴いて以来のこと。
こういう作品を定期で紹介するのは流石にカンブルランで、久し振りに若きベルリオーズに想いを馳せました。なお、NMLではカンブルラン盤を聴くことが出来ますが、今回の演奏の方が若干速目にも感じられ、やはりナマ演奏は格別です。

続いては期待のケラス登場。サン=サーンスやラロの協奏曲ではなく、デュティユーを取り上げる辺り、読響定期ならでは。如何にも近現代作品を得意とするカンブルランで、今年がデュティユー生誕100年に当たっているのも選曲の要因でしょう。
ケラスは譜面を見ながらの演奏でしたが、何より作品が素晴らしい。題名はボードレールの詩集「悪の華」から採られ、「謎」「眼差し」「うねり」「鏡」「賛歌」の5部分が続けて演奏される単一楽章スタイルの協奏曲。大雑把に言えば急・緩・急・緩・急でしょうか。

「謎」はカデンツァ風の序奏から始まり、主部は序奏のテーマによる変奏曲。この序奏部が「眼差し」の最後にも再登場するので、提示→展開(再現)という形式感を聴き手に意識させます。「鏡」ではハープ、マリンバ、チェレスタが透明なカンヴァスを現出し、チェロが高音で静かに歌う。
最後の「賛歌」でオーケストラは躍動的に動き、7拍子と6拍子の交錯がスリリングに展開。これから大きなクライマックスか、と思う内に、ソロの細かい動きが漸減して曲を閉じてしまいます。何とも謎めいた終わり方。

ソロのケラスは決して大きな音量を誇るチェリストではありませんが、カンブルランの出しゃばらない好バックもあって繊細な技巧を披露。音楽的センスの良さが光っていました。
日本で短く挨拶、アンコールはバッハの無伴奏第1番からプレリュード。このバッハは如何にもヴィオールの延長と言う印象で、弓の短いオリジナル楽器スタイル。とてもサントリーの大ホール向きの音楽家ではありませんが、何時かは鵠沼の様なサロン空間で静かに味わいたいチェリストだと思いました。

ところでデュティユー、今年のプロムスでは生誕100年を記念して8月の3日間で3作品が連日演奏されます。チェロ協奏曲はヨハンネス・モーザーのソロ、ファンホ・メナ指揮BBCフィルが演奏しますから、聴き比べてみては如何。
昨日の大人しかった読響定期会員と、プロムスの聴衆の反応を比べてみるのも一興でしょう。

その客席が前半とは比べ物にならない位に沸いたのが、後半のブルックナー。実は第3番、当初発表では第2稿を演奏するとアナウンスされていましたが、どうやら行き違いがあったようで、最初からカンブルランは最も普通に取り上げられる第3稿の積りだったようです。プログラム誌でもネットでも、会場でもお詫びの告知が掲示されていました。
私も最初は“えっ、第2稿をやるのか。流石カンブルラン”などと早合点していましたが、彼の録音も通常の第3稿。これはチト糠喜びだったようです。

ブルックナーの第3交響曲と言えば、個人的にはかつて読響でオッテルローの鳥肌物の名演で初体験した作品。最近でもスクロヴァチェフスキ―が二度に亘って定期で取り上げてきましたから、私にとっては「第3は読響」という作品。
オッテルローの時代(確か1965年か1966年)はハースもノヴァークも無い時代で、この時はエーザー版という代物が使われたのではないでしょうか。対してスクロヴァ翁はノヴァーク版とは言いながらマエストロの独自な解釈を施した版。楽器編成なども手を加えていたと記憶します。

今回期待を以て臨んだカンブルランでしたが、そういう体験を経た耳にとっては至極真っ当で、普通の演奏に聴こえてしましました。
確かにカンブルランの美質であるクリアーな響きと、良く歌うカンタービレは聴き取れましたが、聴き進んでいくと次第に退屈さが感じられてしまうのです。何と言うか、一本調子。オケの圧倒的なパワーだけが目立ち、スクロヴァチェフスキの様な立体感、構造に対する配慮と言う面でどうしても聴き劣りがしてしまいました。
もちろん演奏面で第一級であることは認めますが、それ以上ではない。ブルックナーに耳の肥えている読響の会員からあれほどの大喝采が起きるとは、やはり世代交代が進んでいるのでしょうか。予測が当てにならない世の中になった来たことは事実のようです。

 

 

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