読売日響・第540回定期演奏会
この秋最初のオーケストラ演奏会を聴いてきました。前日の仲秋の名月は生憎雨天で拝めませんでしたが、昨日は一日遅れの望月、重陽の節句でもありました。
7月以来のナマ・オケ、やはり音楽はナマ演奏に限ると実感した次第。
ハイドン/交響曲第9番ハ長調
~休憩~
ブルックナー/交響曲第9番ニ短調
指揮/下野竜也
コンサートマスター/小森谷巧
読響は年の前半が9月まで、来月から後期に入るということで前半の締め括りでもありました。今月は首席客演指揮者の下野竜也が3種類のプログラムを披露します。指揮者としてはかなり恵まれた環境でしょう。
定期の後はサントリーの名曲、最後に池袋と横浜で夫々のマチネーという構成。下野と言えばプログラムに凝る人で、今回も独自の視点が垣間見えてきますね。
来週のサントリー名曲はゲッセマネ繋がり。ゲッセマネは単に地図上の地名ではなく、最後の晩餐の地。バッハに松村偵三(ゲッセマネの夜に)を組み合わせ、最後はフサのブラスバンド作品をオーケストラ用にアレンジした宗教的作品で締める。下野ならではのプログラミングですが、コンセプトは統一されています。
一方池袋と横浜はフランスのオルガンを中心に据えた作品集で、冒頭はバッハのオルガン曲をオルガニストのストコフスキーが編曲した作品。オルガンと言えば教会とは切っても切れない関係にあり、ここでも宗教的な、具体的に言えばキリスト教関連の作品で纏めたプログラムでしょう。
そして定期はブルックナー。その最後の交響曲は「神」に捧げられた作品で、この回も宗教的なコンセプトが貫かれています。3種のプログラム、音楽的な傾向は3者3様でありながら、核となるものは共通している、というのが9月下野の聴き所ということになります。マエストロとしては、そして団としても全部聴いてほしい所でしょうが、残念ながら経済的ゆとりの無い小生は定期だけで我慢することにしました。
ということで定期です。もちろんメインはブルックナーで、組み合わされたのはハイドンの同じ交響曲第9番。最近ではシューベルトとブルックナーの未完成交響曲プロというのが流行ですが、流石は下野、捻りに捻ってきた印象です。
9番同士、というだけでは駄洒落の世界ですが、実はそうでもない。滅多に演奏されないハイドンは、極めて実験的な作曲家で、モーツァルトと違って二つとして同じような作品を残していません。この第9に付いては、主に三つの試みがあると思慮します。
一つはプログラムにも書かれていたように、楽章が三つしかないこと。これはブルックナーとの共通点でもありますね。3楽章と言っても、完成された交響曲のスタイルから見ればフィナーレの第4楽章を欠いているということ。(因みに10番も3楽章ですが、こちらはメヌエットを欠いた構成で、やはり実験的なもの)
第2は楽器編成で、木管楽器は第1・3楽章がオーボエ2本であるのに対し、第2楽章はオーボエでなくフルート2本を態々使う。今回下野は楽章が変わるごとに奏者も席を立って入れ替わるように演出していました。この効果をより明瞭に「見せる」配慮だったと思われます。(最初からそのように配置しておけばいいんですからネ)
そして第3はメヌエット楽章のトリオ。当時は未だ一般的ではなかった「ワルツ」を採用し、オーボエは装飾音を鏤めて名人芸を披露する。トリオ後半はホルンに高いハ音を要求し、作品の中で最も難しい個所となります。第1楽章(第2楽章ではホルンは休み)ではこんな高音は出てきません。しかもこれを伴奏するパートにはハッキリとファゴットが指定されているという具合。
この第3点に付いては下野の意図が今一つハッキリしなかったようですが、ブルックナーの前にこの作品を選んだ意味は十分すぎるくらいに伝わっていました。弦は6型と落とし、ヴァイオリンを対抗配置に据えていたのも時代様式に対する配慮でしょう。もちろんチェンバロを通奏低音に加えていました。(広いサントリーホールではチェンバロが埋没してしまう難点はありましたが)
後半のブルックナー、去年は5番を披露しましたが、今回は9番。大阪時代に朝比奈隆の薫陶を受けただけあって、彼もブルックナーには拘りがあるようです。他のオーケストラとも別の交響曲を取り上げていますが、5番や9番は読響というのは流石に正指揮者を長年務めたことはあります。オケに相応しい重厚な表現で成功しました。
下野/読響のブルックナー・シリーズは今後も続くのでしょうか。前首席指揮者スクロヴァチェフスキと全交響曲を演奏してきた読響(現在も再演シリーズが継続中)、それらとの兼ね合いが悩ましい所ですね。
それにしても日本人はブルックナーが好きですね。重厚で真摯な音楽が国民性にもマッチしているみたい。
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