二期会公演「トリスタンとイゾルデ」

9月に入ってからの首都圏は鬱陶しい日々が続き、スッキリと晴れた日はほとんど記憶にないほど。9月18日の日曜日も台風が接近中とあって時折雨がパラつく中、上野の東京文化会館でオペラを楽しんできました。
東京二期会がライプチヒ歌劇場との提携で製作する2演目の最初、トリスタンとイゾルデです。私が観たのは4回公演の最終日、以下のキャストでした。

ワーグナー/楽劇「トリスタンとイゾルデ」
 トリスタン/ブライアン・レジスター
 イゾルデ/横山恵子
 マルケ王/清水那由太
 クルヴェナール/大沼徹
 メロート/今尾滋
 ブランゲーネ/加納悦子
 牧童/大野光彦
 舵取り/勝村大城
 若い水夫の声/新海康仁
 合唱/二期会合唱団
 管弦楽/読売日本交響楽団
 指揮/ヘスス・ロペス=コボス
 演出/ヴィリー・デッカー

先ずオーケストラが読響であることに注目。実は去年も紹介しましたが、同オケは前年9月の定期演奏会でも「トリスタンとイゾルデ」を演奏会形式で取り上げたばかり。もちろんその時とは指揮者もソリストも異なりますが、この経験は非常に大きかっただろうと思われます。
実際、オーケストラの存在感をいつも以上に感じたオペラ公演でもありました。個人的にも1年チョッとの間にトリスタンを二度もナマし、その間には前年のバイロイト公演をテレビ観戦したりもして、このところトリスタンづいているメリーウイロウです。

また指揮のロペス=コボスは、以前に日本フィルに客演したときにマエストロ・サロンでも親しく人柄に接した巨匠。あのときは演奏作品だったファリャをプッチーニと比較し、二人の人柄を生き生きと描写されていたことを今でも思い出します。
残念ながら日フィルとは再演はありませんでしたが、今回は初共演の読響からどんなワーグナーを惹き出すかも興味津々で出掛けました。

去年と違って今年のトリスタン体験は舞台上演。謎多き本作では、どうしても演出に目が行ってしまいます。

手に取ったプログラムを開いて真っ先に目に入ってきたのが、東京二期会理事長・中山欽吾氏の「ごあいさつ」。二期会がトリスタンを上演するのは今回が初めて、という一文に驚いてしまいました。“え、初めてだっけ”というのが正直な反応で、それだけトリスタン上演のハードルが高いということでしょう。
去年の読響定期でも感じましたが、今や歌手のレヴェルに東西の高低差は無く、場合によっては逆転も。日本人歌手を中心とする二期会、今回のトリスタン役だけはアメリカ人歌手を起用しましたが(もう一組は全員日本人キャスト、海外じゃ考えられませんネ)、質的な違和感は全く感じられません。改めて日本人歌手たちのレヴェルが飛躍的に向上していることを見せつけた公演でした。

今回の演出は、ライプチヒで上演されているヴィリー・デッカーのもの。昨今のワーグナー演出は本家バイロイトを初めとして読み替えが多く、私にとって不安はその点に尽きるかも。先日のバイロイトのような演出を見せられたのでは敵いませんからナ。
その意味では、もちろん原作の台本とは多少異なる点があったものの、大いに納得できる好演出だったと考えます。プログラムにはデッカー本人の「二つの現実という原理」という小論文が掲載されていましたが、これでは演出の意図は良く判りません。実際に見た舞台を思い出しながら、いくつか気が付いた点を記録しておきましょう。

先ず舞台は、3幕共に中央に小舟が据えられており、左右両面と床面とで3枚の壁が囲んでいる。最初、この小舟はイゾルデ姫がコーンウォールに向かう船かと思いましたが、それにしては小さ過ぎるじゃないか。
舞台が進むにつれて判ってきたのですが、この小舟は実際の移動手段ではなく、ドラマが生起する舞台の象徴として置かれているのです。漕ぐための櫂が2本、最初は左右に交差しておかれていましたが、これも単なる小道具じゃありません。ドラマを進める原動力としての「櫂」。

トリスタンとイゾルデが「愛の妙薬」を飲み干すのも、「愛の二重唱」も、第2幕最後の「負傷の場面」も、トリスタンの死も、イゾルデの「愛の死も」全てが、この舟上で歌われ、演じられるのでした。
二本の櫂は、最初は噛み合わないトリスタンとイゾルデを象徴するように左右交差して置かれているものが、第2幕の冒頭では同じ方向を向いて並べて壁に立てかけられている。

話を先に進めると、第3幕では舟は真二つに割れており、2本の櫂も真ん中から二つに折れた状態で舞台に転がっている。
しかしトリスタンは死の直前に力を振り絞って割れた舟を一つに繋ぎ、イゾルデも「愛の死」の絶唱で2本の櫂を繋ぎ合わせながら歌って、「二つに割れた関係」を一つに修復してみせる。これが何かの暗示・象徴でなくして何でしょう。

一度演出の意図に気が付いてみると、舞台上の様々な仕草や装置などが意味を持って感じられてくるのがオペラの面白い所。その例としては、
第1幕で主役二人が毒薬と思いながら「愛の妙薬」を舟上で飲み干します。先ずトリスタンが飲み、その杯を引っ手繰るようにしてイゾルデが後に続く。これは台本通りでしょう。
しかし第2幕の幕切れ、メロートの剣を奪うようにしてトリスタンが自らの両眼を傷つける。その剣を奪うようにしてイゾルデもまた、己の両目を剣で切り付ける。これは台本とは全く異なる展開ですが、トリスタンの行為をイゾルデが追う、という点では杯の飲み干しとペアとなる象徴劇と見えてくるのです。この演出の場合、トリスタンとイゾルデにとって杯は愛、剣は死を意味し、単なる「読み替え」以上に説得力のある演出と感じました。もちろんトリスタンの死をイゾルデが追うという本来の結末も・・・。

イゾルデはアイルランドの女性、それを迎えるのはコーンウォールのマルケ王。船がコーンウォールに着岸すると、舞台には緑色が現れます。
そして第2幕のマルケ王の衣装は緑一色。言うまでもなく「緑」はアイルランドの国色とでも言うべきで色彩で、これはマルケ王がイゾルデの気持ちに配慮した思い遣りではないか。そこまで気を遣っていた王を裏切るイゾルデ。私にはあの緑はそう映ったのですが、間違いでしょうか。

去年のバイロイトでは、二人の逢引を舞台天井からマルケ王とメロートが盗み見ていたり、果ては最後に王が生きたままイゾルデを連れ去ってしまうという意味不明の演出がありましたが、今回のデッカー演出ではそのような不可解な場面はありません。
もちろん伝統的な舞台とはかなり異なっていましたが、初めて見る人にも、バイロイト詣でを欠かさない人にも理解できる舞台だったと思います。

バイロイトはオーケストラに大きな蓋が被さった状態で、歌手とオケとが絶妙なバランスで溶け込むのが特徴と聞きますが、今回の上野では通常のピットでありながら、オケが声を圧するような場面は極めて僅か。
もちろんロペス=コボスの室内楽的なアプローチが効果を挙げていたためでもありましょうが、舞台を3分割していた3枚の壁が歌手たちの歌を巧く反響させて客席に届けることにも役立っていたのではないかと思慮します。この舞台構成、あるいは最初からそれを意図した面もあったのでは、とも考えてしまいました。

トリスタン慣れ? した読響の演奏も見事なもので、パワーより音色の微妙な変化が的確に聴き取れる名演。次はロペス=コボスの指揮で指輪チクルスを、などと夢も膨らんでしまいました。今の二期会なら、そして読響なら伝説を作り出すことも可能でしょう。

 

 

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