読売日響・第471回定期演奏会
昨日の月曜日、サントリーホールで行われた読売日響の定期公演、客席の反応が気になるコンサートです。
ワーグナー/楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲
山根明季子/オーケストラのための「ヒトガタ」(世界初演)2008年度読売日響委嘱作品
~休憩~
コリリアーノ/ザ・マンハイム・ロケット(日本初演)
コリリアーノ/<ハーメルンの笛吹き幻想曲>(フルート協奏曲)
指揮/下野竜也
フルート/瀬尾和紀
子供隊/足立区内中学校吹奏楽部有志
コンサートマスター/デヴィッド・ノーラン
フォアシュピーラー/鈴木理恵子
フルートの瀬尾と足立区の子供たちは、もちろん最後の作品で登場します。
プログラムの主旨や作品の詳細については繰り返しません。事前に調べた通りの作品、また演奏でした。
まず前売りの具合を見にチケット・ウインドウを覗きます。もちろん前売りが出ていましたし、何人かのファンが窓口に並んでいました。ズラッ、という感じではありませんでしたがね。
その客席、現代モノにしては良く入っていました。P席も予想していたよりは埋まっています。
舞台はいつもと違い、山台というのでしょうか、プレイヤーが乗る舞台を全て取り払ってあります。反対に、指揮台は普通の2倍。2種類の指揮台を積み重ねて、横に指揮者が這い上がるための階段まで設置してある。
理由はよく判りませんが、山台が無い分、指揮者が見え難くなる金管奏者や打楽器奏者に対する配慮からでしょう。実際、今日の作品は指揮者の指示が無いと、ほとんど演奏不可能な作品だからです。
冒頭のワーグナー、何故これが置かれているのかも繰り返しません。世界でも有数なくらい音量の大きさを誇る読響、最初からそのパワーで客席を圧倒します。下野も作品の叙情的な面も疎かにせず、堂々たるワーグナー世界を聴衆の耳に焼き付けました。
さて世界初演の「ヒトガタ」。現代作品にありがちな楽器の移動はほとんどありません。いつもの現代大編成オーケストラ曲初演ならセッティングに時間がかかる打楽器群は、余計な山台がないためにスペースに余裕があり、予めセッティングされていました。これは効率が良くてヨロシイ。
山根作品は、凡そ西洋クラシックの響きとはかけ離れた世界です。響きだけではなく、語法自体が伝統的なスタイルとは無縁。起承転結があったり、提示と展開、再現などの筋道もありません。“現代音楽はメロディーも和音も無い、騒音だけ”などと酷評されますが、そういう比較すら前提にはならないほど、時代は変わっているのです。いや、彼女の個性というべきでしょうかね。
一度聴いただけでどうこう言う耳は、私は残念ながら持ち合わせていません。
前半というか、最初は金属的な響きが中心になっているようです。打楽器だけでなく、弦楽器にも金属的な音を要求しています。私は聴いていて巨大なオルゴールが鳴っているように感じましたし、何かの製造工場に紛れ込んだような感覚。
真中辺りで鳴り出す複数のメトロノーム。夫々の設定スピードがマチマチで、その中で指揮者がテンポを設定して振らなければならない不条理。
後半というか、最後の方で「パウゼ」が何度も登場することに気が付きます。計算された休止。指揮者もオーケストラ奏者たちも、パウゼの間は身動き一つせず、時間が止まったような錯覚。
ここでは、「音が鳴っている時間」と「音がしない時間」が逆転しているのでしょう。音の無い時間が、むしろ主役というような。
実際、作品の最後は、長ぁ~いパウゼで閉じられるのです。おい、何処で終わったんじゃ。
今回は作品の演奏の前にプレトークがあるのではなく、後半、それもロケットとフルート協奏曲の間の暗転を利用して、下野と山根による簡単なトークが行われました。新しい企画、でしょうか。アプレトークですな。
そのトークで語られた作曲者自身の言葉によれば、このパウゼは、描かれた「カタチ」や音によるデザインが「標本」になる様を描いたのだとか。
客席の反応はなかなかのものでした。花束ボーイが出現したくらいですから・・・。
下野によれば、人間の生理に逆行するような個所が沢山出てくる、ということでしたが、いわばヴァーチャルな世界を音で体験する、ということになるのかなぁ。
これはコリリアーノでも言えることなんですが、様々な楽器を本来の演奏法から外れて「雑音」を出す。確かに耳慣れない音が溢れかえるのですが、やはり出てくる音たちは楽器によって演奏されている「音楽」である、ということ。
これは例えばCDや放送では絶対に聴き取れない音空間なんですねぇ。早い話、例えば今日の演奏を放送で聴いたとしても、作品の全体像はほとんど伝わらないでしょう。パウゼにおける演奏者達の「演奏行為」は、現場に居なければ決して理解できないもの。
そういう意味でも、定期演奏会が唯1回だけで終わってしまうというのは、いかにも勿体無いと思いました。
コリリアーノの感想を書くスペースがなくなりましたが、これも楽器の様々な可能性を追求している、という点で山根作品にも通ずるところがあります。最初からそういう気構えで現代作品に臨めば、コンテンポラリー、また楽し、なんです。
マンハイム・ロケットのマッチの音、録音では何の音か判りませんでしたが、演奏を目で見て鑑賞すれば、どの楽器が出しているのかは一目瞭然。
ただ残念なことに、1階席からは、山台がないためにほとんどの打楽器が見えず、隔靴掻痒の感は否めませんでした。
演奏後の拍手で判りましたが、ノコギリ、いわゆるミュージカル・ソー Musical Saw が使われていました。このノコギリ、楽器?に「ストラディヴァリス」という銘があるのだそうな。下野がプレトークで紹介、爆笑を誘っていましたっけ。
ハーメルンの笛吹きを演じた瀬尾、スコアの指定の通り、中世を髣髴させるような衣裳で登場。客席の目を大いに楽しませてくれました。もちろん超絶技巧のテクニックも見事。我々の耳も楽しませてくれたことはもちろんです。
子供隊は足立区内の中学生たちということでしたが、フルート9人、打楽器2人の中には、小学生が1人、高校生も1人参加していました。
サントリーホールは、その構造から舞台に繋がる通路が2本しかなく、作品の指定通りの3部隊が今一つ明確でなかったのは止むを得ないか。
料理に喩えれば、“普段はあまり食べたくない料理”も、“ゲテモノ担当・下野”の活き活きした交通整理術によって、“いつかまた食べたい”という気持を定期会員諸氏に植え付けたのじゃないでしょうかねぇ。客席の反応は、それを表明しているように感じました。
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