日本フィル・第322回横浜定期演奏会
日頃の不摂生?が祟ったのでしょうか、3日前の木曜日、古傷のギックリ腰がほぼ25年振りに再発。予定していた演奏会も一部キャンセルせざるを得ないメリーウイロウでありました。
最悪なのは寝起きで、床から抜け出して洗顔するまでの間が鬼門。ここ数日は毎朝の様に何かが切っ掛けで歩行も儘なりません。それでも自己流リハビリによって午後は持ち直し、夜になると全快したと見紛うばかりの日々。昨日は病の合間を縫ってみなとみらいホールに出掛けました。
ラザレフのラフマニノフは東京定期で聴いたから今回はパス、と最初は思いましたが、体調が戻るにつれて欲望も再燃。結果としては出掛けて良かった、聴くべきだったと納得したロシアン・ナイトです。泣く子も黙る以下のプログラム。
ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番
~休憩~
ラフマニノフ/交響曲第2番
指揮/アレクサンドル・ラザレフ
ピアノ/ルーカス・ゲニューシャス
コンサートマスター/扇谷泰朋
フォアシュピーラー/齋藤政和
ソロ・チェロ/辻本玲
ラザレフのラフマニノフ、しかもロシアの若手を迎えての協奏曲とあっては、感想を書くまでもないでしょ。期待に違わぬ大演奏に圧倒されっ放しでした。
プレトークの奥田佳道氏も指摘されておられましたが、敢えて聴き所を解説するまでもない選曲。それでも氏が取り上げていたのは、ロシア人指揮者とロシア人ソリストによるロシア音楽は「意外に有りそうで、無い」ということ。確かにロシア楽団の日本ツアーで協奏曲を弾くのは、最近では日本人と相場が決まっていますし、ネ。
今回は世界で最もロシアらしい音を出すオーケストラである日本フィルをロシアのマエストロが振り、ショパン・コンクールとチャイコフスキー・コンクールで共に2位というロシアの若手が弾くのですから、「有りそうで、有った」コンサートでもあります。
奥田氏が協奏曲で触れられたのは、第1楽章がハ短調で始まり、第2楽章がホ長調という遥かに遠い調に飛ぶこと。実は同じことをベートーヴェンが第3ピアノ協奏曲で実践しており、遠い先例がある由。言われてみればなるほどと感心頻り。
第1楽章の最後の音がそのまま第2楽章の冒頭に扱われ、それは第2楽章から第3楽章への橋渡しでも同じなのだとか、日フィルのプレトークは決して聞いて損になるような15分じやありません。
その他、交響曲では第1楽章の提示部繰り返し、同じ楽章の最後の1発にティンパニが加わる解釈もあるという話題が取り上げられましたが、それは聴いてのお楽しみ。
で、協奏曲。登場したゲニューシャス、プログラムに掲載された如何にも若者という写真とは全く違い、顎鬚を蓄えた大家風の容貌。そのギャップに一瞬たじろぎます。ピアノは粗削りな面はあれど、ラザレフとの共演も手伝って堂々たるラフマニノフ。
この若手、プログラムによるとヒンデミットの「ルードゥス・トナリス」もレパートリーに持つということで、アンコールは耳慣れない短い一品。多分弾かれた時点で曲名を指摘できる人は皆無だったと思います。
終了後にホワイエで確認すると、デシャトニコフという作曲家の「劇場の共鳴」という作品集からの1曲とのこと。帰宅して調べると、ナクソスのNMLで2種類の音源を聴くことが出来ます。このサイトによれば、レオニード・アルカディエヴィチ・デシャトニコフ Leonid Arkad’yevich Desyatnikov (1955- ) の「劇場からのこだま」Echoes from the Theatre と表記されており、弾かれたのは第4曲?の「Rondeau-chase」。
ナクソスで配信されているオセチンスカヤ盤では12曲が取り上げられている曲集で、全貌は良く判りません。(もう一つのエヴリン・チャン盤では6曲が弾かれています)
いずれにしても実際に演奏会に出掛けて見なければ聴けなかったもの。デシャトニコフという作曲家も知らずにいたことでしょう。
http://ml.naxos.jp/opus/242254
後半は言うことなし。プレトークで紹介された第1楽章の繰り返しは実行されていましたし、第1楽章の最後はティンパニがハッシとばかりに一撃を追加していました。第1楽章の繰り返し、確か東京定期ではカットされていたように記憶していますが、この素晴らしい提示部の繰り返しが聴けたことも、出掛けなければ体験できなかったことです。
通常横浜定期のコントラバスは4プルト7人で演奏する日フィルですが、この日は一人多い8人。恐らくマエストロが“8人でなきゃダメ”と宣ったのでしょう。低音部がホールを埋め尽くす強烈なロシアン・サウンドが唸りを立てていました。半世紀前はカットが状態となっていた作品とは思われず、一音たりとも無駄な音楽は無いと確信させてしまうラザレフの説得力。
第2交響曲だけで大満足のコンサートでしたが、更にヴォカリーズがアンコール。ラザレフは「情に溺れる」タイプの音楽家では決してありませんが、ラフマニノフばかりは音楽そのものがロマン派的語法の頂点。流石のラザレフでも聴衆は美音と、濃厚なロマンティシズムに酔い痴れるしかないでしょう。
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