日本フィル・第607回東京定期演奏会

いよいよラザレフのプロコフィエフ交響曲連続演奏プロジェクトがスタートしました。その第1回、初日(1月16日)のレポートです。
アレクサンドル・ラザレフ首席指揮者就任披露演奏会
《プロコフィエフ交響曲連続演奏プロジェクトVol.Ⅰ》
プロコフィエフ/交響曲第1番二長調「古典」
モーツァルト/ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲変ホ長調
     ~休憩~
プロコフィエフ/交響曲第7番嬰ハ短調「青春」
 指揮/アレキサンドル・ラザレフ
 ヴァイオリン/漆原朝子
 ヴィオラ/今井信子
 コンサートマスター/木野雅之
今回のプログラムにはラザレフの「親愛なる聴衆の皆様!」という挨拶が掲載されていましたし、評論家氏の期待を籠めた一文も載っていました。各所から注目されているラザレフ/日本フィルの新たな船出です。
ラザレフのプログラミング、東京定期に限っては3年間の契約の中で、プロコフィエフの交響曲を全曲演奏していく予定です。二つある第4についてはどうするのか、現在のところは決まっていないようですね。
もう一つ決め事があって、必ずモーツァルトの作品を組み合わせるとのこと。これはマエストロが先のサロンで語っていたように、モーツァルトとプロコフィエフには共通点がある、というのですね。一言で言えば、透明で純粋な音楽。
プロコフィエフは大きなオーケストラを駆使して複雑な作品のように見えますが、夾雑物を取り払えば、残るのは極めて美しく純粋な音楽だ、というのがラザレフの主張です。
(マエストロによれば、組み合わせるモーツァルトは交響曲ではダメ。協奏曲か短い合唱作品を考えているとのこと。交響曲では全体が重過ぎるとの話でした。)
ラザレフの意図を知ってこのコンサートに臨めば、彼のプロコフィエフとモーツァルトは即座に理解できるものです。
古典交響曲は速いテンポを基調として(特に第4楽章)、極めてスタイリッシュな構成を明確にしていました。“これはほとんどモーツァルトですよね。”というラザレフの声。
意外や、組み合わされたモーツァルトの素晴らしかったこと!!
意外などと言っては失礼ですが、私はラザレフのモーツァルトを初めて聴きました。もちろんモーツァルトはモーツァルト、誰が振ってもモーツァルトですが、この日は改めて「モーツァルトの魅力」に酔った心地が致しました。
漆原、今井のソリストの呼吸がピタリ。ご丁寧に第1楽章と第2楽章に二度も登場するカデンツァの美しかったこと。ラザレフも聴衆と共に楽しんでいる様子。
オーケストラも、オーボエとホルンが作品に相応しい暖かさと豊かさを付け加えていました。
(全くの偶然だそうですが、漆原・今井両氏の楽器は共にグァルネリ・デル・ジュス。両者の息だけでなく音色がピタリと合っていたのはそのためもあるでしょう。
また、ヴィオラ・パートは調弦を変えて二長調で弾くのが最近の慣わしですが、今回はヴァイオリンと同じ変ホ長調で弾いた由。ということは、譜面のニ長調を変ホ長調に翻訳しながら弾いていたわけ。これはこれで凄いことです。)
モーツァルトは退屈、と言う人がいます。もし今日のモーツァルトを聴いて退屈だと感じたなら、その人はクラシック音楽そのものが退屈だと感ずるに違いありません。音楽の真髄たるモーツァルト。
メインの第7交響曲。
冒頭のピアノとハープ(ホルンとチューバも)が鳴らす「嬰ハ」は、ロシアの人々にとって生活に欠かせない「鐘の音」。この「嬰ハ」が全曲を締め括る最後に、再びピアノとハープ(弦のピチカートも)によって弱々しく鳴らされます。つまり、アーチを描く構造。
これこそがプロコフィエフの「青春」交響曲に秘められた意図なのです。そのことをラザレフは、マエストロサロンでも強調していましたし、実際の演奏でも的確に指示していました。
ラザレフの指揮は、一見すれば大袈裟に感じられるかも知れませんが、作品のポイントを明確にオーケストラにも聴衆にも伝え、“聴き手をこうした感情で照らし、魅了し、感動に満たされた多くの心がひとつになっているのを感じる” ための表出なのです。
この日は予告どおり、アンコールの形で第7交響曲の別稿フィナーレが演奏されました。
マエストロはマイクを手に、日本語で、“プロコフィエフが書かされた”という言葉を三度も繰り返して、賑やかなフィナーレでコンサートの幕を閉じます。
土曜日に聴かれる方、第7の全曲が終わったからと言って直ぐに席を立っちゃいけませんよ。お年玉付きコンサートですからね。
長くなりますがもう一言。
ラザレフは、優れた作品を初めて聴いた時には咀嚼して自分の物にするのに1週間は掛かった、と述懐しています。それは聴き手も同じ事。最近は連続して一人の作曲家を集中して演奏したり、時には一晩で○○の交響曲全曲演奏などという試みもあります。しかしそれは、ラザレフによれば“煮え湯を飲まされるようなもの”であり、“誰が生き残るかを試されているようなもの”である、とも表現していました。
ラザレフ/日本フィルのプロコフィエフ・プロジェクトは、3年を掛けてジックリ取り込みます。我々も最低一週間をかけ、プロコフィエフの素晴らしさを自分の物に消化していく努力が必要ではないでしょうか。

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