二期会公演「ナクソス島のアリアドネ」Ⅱ
日生劇場で二期会の「ナクソス島のアリアドネ」がスタートしました。今回はライプチヒ歌劇場との提携公演でダブル・キャスト、夫々が2公演づつを予定しているので4日間、私はその初日を聴いたことになります。
腰の状態が思わしくないので、事前の予定を全てキャンセル、体調を万全に整えて有楽町に降り立ちました。初日のキャストは以下、
リヒャルト・シュトラウス/歌劇「ナクソス島のアリアドネ」
理事長/多田羅迪夫
音楽教師/小森輝彦
作曲家/白圡理香
テノール歌手/バッカス/片寄純也
士官/渡邉公威
舞踏教師/升島唯博
かつら師/野村光洋
召使い/佐藤望
ツェルビネッタ/高橋維
プリマドンナ/アリアドネ/林正子
ハルレキン/加耒徹
スカラムッチョ/安冨泰一郎
トゥルファルデン/倉本晋児
ブリゲッラ/伊藤達人
ナヤーデ/冨平安希子
ドゥリヤーデ/小泉詠子
エコー/上田純子
天使/小島幸土
管弦楽/東京交響楽団
指揮/シモーネ・ヤング
演出/カロリーネ・グルーバー
この中で理事長は台詞のみ、往年の名バリトン多田羅氏が全日演じる予定。また最後に挙げた天使は今演出ならではのキャストで、黙役であることから全日同じ少年が務めることになっています。その役割は後程・・・。
二期会のアリアドネは今回が4回目という人気演目で、私は初演以外は全て体験してきました。2008年の公演は当ブログにも感想をアップしていましたので、日記のタイトルは全く同じになってしまいました。タイトルの後にⅡを振ったのは、そのため。
2016年の上演は、現在の定番である改訂版がウィーンで初演されてから丁度100年の節目に当たる由。実はオリジナル版も初演から100年に当たる2012年にザルツブルク音楽祭で取り上げられており、それを現地で聴かれた方は今回、ライプチヒであれ東京であれ、改訂に至った経緯などを思い起こす絶好の機会になる(なった)でしょう。
改訂に至った経緯は、今回のプログラムに岡部真一郎が詳しく書かれています。私もモリエールの演劇に劇中劇として上演されるオリジナル版を一度は見てみたいと思いますが、歴史が伝えるような失敗作ではないとのこと。実地に体験できる日が来るのを待ちましょうか。
今回の演出がカロリーネ・グルーバーというのも興味津々。日本では同じ二期会の「ドン・ジョヴァンニ」の演出家として名前が挙がっていますが、私には2008年、びわ湖のサロメの演出家として強烈なインパクトがありました。
その時のサロメについてもブログ記事が残っていますが、共感は出来なかったものの、独特な解釈は今でも“バドミントンのサロメ”として内々では受けているほど。今回のアリアドネにも、共通するコンセプトが見受けられ、「グルーバーのアリアドネ」として密かに伝承されていくことは間違いなさそうです。
指揮者がシモーネ・ヤングというのも聴き所で、指揮者も演出家も女性というコンビネーションは二期会始まって以来のことだそうな。ヤングは今年のプロムス・ネット中継でも聴いており、今回の来日を楽しみにしていた方で、来年は読響定期でも聴けそうですネ。
プロローグとオペラの間に休憩が入るのは当然ですが、原作でプロローグとオペラの両方に出番があるのはツェルビネッタ、アリアドネ(プリマドンナ)、バッカス(テノール歌手)の3人だけ。従ってプロローグが終わった後に作曲家、音楽教師、理事長などがカーテンコールを受ける公演をこれまで多く見てきましたが(DVDも含めて)、今回はプロローグ後のカーテンコールは無し。
つまり、オペラのみの登場人物がプロローグにも登場して演技するし、プロローグのみの配役たちもオペラに立ち会って演劇に加わるというのがグルーバー演出の特徴と言えるでしょうか。もちろんこの種の演出は他にもあるのでしょうが・・・。
その中に、上記の天使の姿もありました。両肩に羽を付けた少年、エンジェルともキューピットとも、アモール Amor とも表記されますが、この「愛」こそがナクソス島のアリアドネのキーワードであるということ、グルーバー自身がビデオ・メッセージで語り掛けています。
プロローグは地下駐車場の出入り口、という設定。この上階に登場することのない「主人」の館があるのでしょう。オペラ上演の準備に集まった歌手や、笑劇で歌い踊るメンバーたちが次々に集まってくるという情景が描き出されます。掃除人、配達人などの助演たちも多く登場してリアル。グルーバーによれば、コンクリートで囲まれた殺風景な舞台が、報酬のために仕事をせざるを得ない作曲家の苦悩を表現しているのだそうな。
私はこのプロローグを見ていて、一瞬トランプ・タワーを連想してしまいましたが、その駐車場もこんな風景なんでしょうね、きっと。
オペラは、孤島ナクソスとは似ても似つかないロビーの一室という設定。各テーブルに音楽教師、作曲家も座っており、理事長も忙しく立ち回っています。「主人」こそ出ませんが、アリアドネもテーブルの一つに深刻な面持ちで座しており、3人のニンフに促されるように“ア、アー”と嘆き始めます。これをエコーが繰り返す。
作品中最大の聴かせ所であるツェルビネッタのレシタティーヴォとアリアでは、可動式スクリーンに裏から光を当てて影法師を浮かび上がらせ、共にパントマイムを演ずるなど、視覚的な面白さはびわ湖のサロメにも共通していました。サロメでは主人公の悲劇性と、彼女が本来持っている陽気な性格との二重性を表現していたと記憶していますが、アリアドネでも様々な事物に内包される相反する二つの側面にスポットが当てられていることに気が付きます。
英雄的なるものと非英雄的な存在、高邁な理想と醜い現実、高貴な芸術と卑俗な演芸(岡部解説)という二極性は、嘘か現実か、一瞬か永遠かということに収斂し、オペラのテーマでもある悲劇と喜劇を同時に上演するという作品の本質を衝いていることにもなるのでしょう。態々作曲家の役にソプラノを配したのも、シュトラウスの意図が感じられると思いませんか?
一見して様々な事象が総花的に進行するグルーバー演出、オペラのクライマックスでは9時に打ち上げられる花火を象徴するように、舞台上方から花吹雪が舞い、煙を漂わせ、シャボン玉を撒き散らし、巨大な花や木が舞い降り、風船が舞台を舞うなど、ありとあらゆる舞台装置が駆使されます。
そして幕切れ、バッカスが見回る間を舞台上の登場人物が次々と死んで行く。最後はバッカス自身も頽れると、天使が登場。倒れた人々の間を縫って舞台中央に進むと、客席に弓矢を向ける。
しかし、チョッと待った。キューピットの矢は「愛」の象徴。死と愛は同じことの二極であって、幕切れの死とは、新たな愛の誕生を暗示するものなのか??
グルーバー女史の演出には、未だ私には付いて行けない部分、意味不明な個所も多々ありました。しかし歌劇「ナクソス島のアリアドネ」という傑作に改めて立ち向かいたいという欲求が生まれてきたのも事実です。
別組の公演も見たいし、確認の意味でもう一度見たいところですが、今回は自分の中で反芻することにしましょう。
びわ湖で飛び出したブーイングは、少なくとも初日は出ませんでした。彼女の演出も徐々に定着してきたということか、狐に摘ままれて良く判らなかったという人が多かったためか。私は前者だと思いますがどうでしょうか?
ドイツ語の台詞をスラスラと操った多田羅氏を始め、歌手は適材適所の好演。改めてドイツ・オペラは二期会という印象を強くします。
日生劇場のピットは、室内楽編成のアリアドネにはピッタリ。この劇場のために創られた作品かと思うほどにサイズが適合しており、ヤングもシュトラウスのスコアを熟知し、過不足ない好指揮でこの日一番の喝采を浴びていました。
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