古典四重奏団のドヴォルザーク選集Ⅰ
第一生命ホールのクァルテット・ウェンズディ、古典四重奏団によるドヴォルザーク・弦楽四重奏曲選集Ⅰに行ってきました。
このシリーズ、今シーズンはパスしようかと思っていたのですが、何のことはない、通し券を買ってしまいました。しかもシニアの特権で、8回券合計で16500円なぁり。
ただし、これまでの1階4列中央ではなく、2階最後列の端っこで拗ねています。理由はいろいろあるのですが、1年間はここでじっくり観察するつもり。
さて今回のプログラムは、第12番・有名な「アメリカ」で始まり、第10番作品51、休憩を挟んで第11番作品61というものです。
これを見て、おやっ、と思うのは自然な成り行きでしょう。ドヴォルザークの弦楽四重奏曲と言えば「アメリカ」ですが、この夜はこれを冒頭に置いてしまい、メインはあまり弾かれることのないハ長調です。
実はここに大きな意味がある、と私は考えましたね。そのように聴き、予想通りで納得しました。
まず「アメリカ」ですが、流石に古典四重奏団のアプローチは一味も二味も違ったものです。聴きなれた名曲ですが、チョッとした息遣いが独特で新鮮。散々聴いた耳にも驚きを覚えるようなドヴォルザークと言えましょう。
しかし本命はこの後に演奏された2曲でしょう。作品51と61は対称的な作品であり、そのことを聴き手に伝えようという意図があったのではないかと思いましたね。
作品51は第2楽章にドゥムカを置き、快活なフリアントを挟みます。その終楽章にはスコチナーというフォーク・ダンスを主体にした音楽で、極めてスラヴ色の濃い作品です。
ドヴォルザークは明らかにその民族を意識し、自国と自身のアイデンティティーを主張したのかと思われます。
一方、作品61は出来得る限りスラヴ色を廃し、ウィーン古典派やバッハの作品に近づこうとしているように感じられます。
明らかに前作とは正反対の姿勢を意識している。
8日の日記で紹介したレクチャー・コンサートの中で、ドヴォルザークほど幸福な生涯を送った作曲家はいないのではないか、という解説がされました。田崎氏はそれ以上この問題に触れませんでしたが、果たしてドヴォルザークの作曲活動に苦悩は無かったのか、という疑問を抱いておられたのではないでしょうか。
古典四重奏団によるドヴォルザーク演奏は、いわゆるスラヴ色に満ちたものではなく、もっと構えの大きな、この作曲家が抱えていたかも知れない問題点(苦悩)に迫ろうとしているように聴こえてきました。
些細な例で言えば、作品51のドゥムカ楽章におけるブレストとヴィヴァーチェの明確な弾き別けとか、作品61の第2楽章コーダにおける深い抉り方とか・・・。
次回は最晩年の2曲、作品106と105が演奏されます。「新世界」交響曲以後のドヴォルザークの音楽は、一筋縄では行かない作品が並びます。古典四重奏団がどのような世界を繰り広げてくれるのか、待ち遠しい気持ちです。
なおこの日はプログラムが盛り沢山で、終演は9時半。少な目の客席からは大きな歓声が上がっていましたが、アンコールはありませんでした。
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