読売日響・第567回定期演奏会
前日の渋谷・日フィルに続き、昨日は池袋で読響の定期を聴いてきました。やはりサントリーホールの改修工事に伴って今春の定期会場を他に移さなければならない読響、フランチャイズでもある池袋の芸術劇場がその舞台となります。
前シーズンは早めに1月で定期演奏会シリーズを終了したため、定期のみの会員である私が読響を聴いたのは実に3か月振りのことでした。4月はカンブルラン常任が得意のプログラムで登場します。
メシアン/忘れられた捧げもの
ドビュッシー/「聖セバスティアンの殉教」交響的断章
~休憩~
バルトーク/歌劇「青ひげ公の城」
指揮/シルヴァン・カンブルラン
ユディット/イリス・フェルミリオン(メゾ・ソプラノ)
青ひげ/バリント・ザボ(バス)
コンサートマスター/小森谷巧
フォアシュピーラー/伝田正秀
前回1月から3か月、読響指揮者陣には少なからぬ変化がありました。
先ずは、先代・第8代の常任指揮者だったスタニスラフ・スクロヴァチェフスキの逝去。マエストロが病気療養のため予定されていた今年5月の定期をキャンセルするという一報が届いて間もなく、2月21日にミネソタ州で93年の生涯を閉じられたことが一般マスコミでも紹介されました。
一定期会員としても、氏から学んだスコアの読み方は貴重な遺産、定期会員共々スクロヴァチェフスキ氏の音楽界への多大な貢献に感謝し、哀悼の気持ちを表したいと思います。
思えば私がマエストロのナマ演奏に接したのは、1978年6月の読響定期。未だ上野の東京文化会館で定期が行われていた時代で、この時はブラームスの第3交響曲が最初に演奏され、サン=サーンスのピアノ協奏曲を挟んでストラヴィンスキーの火の鳥組曲が取り上げられました。
ソリストは、今や名指揮者の一人に列せられるチョン・ミョンフン。この時の演奏がどんなものだったかは思い出せませんが、二人が並んで颯爽と登場した光景は今でも記憶に残っています。今となっては貴重な一シーン。
次いでは、長年正指揮者として事実上読響の看板指揮者だった下野竜也の退任。正指揮者として最後の登場となった3月は定期ではなかったため、私は聴き逃しましたが、氏もまた読響に多彩なプログラムをもたらした功績は極めて大。下野本人はゲテモノ担当と自虐的なジョークを飛ばしていましたが、他では聴けないレパートリーで大いに楽しませてもらいました。
特にヒンデミットのレア作品シリーズ、コリリアーノやジョン・アダムスの新しい世界は大変勉強になりましたよ。
今後下野は広島や京都で聴くことになるのでしょうが、日本全国のオケで引っ張りダコであることは相変わらず。今期の読響には登場予定はありませんが、様々なオケで遭遇することを楽しみに待ちましょう。
ということで4月はカンブルラン御大。改めてプログラムを眺めれば、3曲に共通したテーマもあり、作曲上の影響もあり、他では聴けない読響の定期を楽しんできました。
さて今度の選曲、プログラム誌にはハッキリとは書かれていませんでしたが、私は「犯した罪と、その償い」という共通項があるようにも聴きました。メシアンはドビュッシーの後継者であり、バルトークもドビュッシーの影響を大きく受けた作曲家。ドビュッシーから派生する作品群という聴き方も可能じゃないでしょうか。
3曲とも演奏頻度は決して高くはなく、今回初めて聴いたという会員も多かったのじゃないでしょうか。
最初はカンブルランのライフワークでもあるメシアン。「忘れられた捧げもの」はその初期作品で、鳥は出てきません。フランス語で発音すると「レ・ゾフランド・ズープリエ」となり、二度もリエゾンする響きが面白く、私もメシアン作品では比較的若い頃から楽しんできました。
解説もあるように、スコアには3段から成る詩句が掲げられています。敬虔なカトリック信者メシアンの思いが綴られ、「あなたは私たちを愛して下さる。優しいイエスよ、そのことを私たちは忘れていた」という人間の罪がテーマ。最後はその償いが描かれていると思います。
曲目解説には「十字架」「原罪」「聖体の秘蹟」の三つの部分が切れ目なく演奏される、とありますが、私は二部作品として聴いています。この方が作品の理解には好都合だからです。
つまり最初の「十字架」は7・8・9・10・11拍子の小節が交互にゆっくりと演奏され、切れ目なく極めて速い「原罪」に突入。この二つの部分は音楽的にはホ短調で書かれており、突然のように停止し、低弦とバスーンによって「十字架」主題が弱音で提示されます。
ここで極めて長いパウゼが入り、解説の言う「聖体の秘蹟」に。ここは4拍子で一貫しており、音楽的にはホ長調でしょう。使われている楽器はヴァイオリンとヴィオラだけ、それもファーストは全プルトとしても、セカンドは4人、ヴィオラは5人だけ。調性の感覚から言っても、楽器編成の特殊性から見ても、作品は「罪」と「償い」の2部構成に聴こえてくるのでした。
続くドビュッシーもキリスト教をテーマとした作品。キリスト教を信ずることが罪と見做された皇帝の世界と、それによって受難殉教する聖セバスティアンという対比は、メシアン作品との共通性を感じます。
後にアンドレ・カブレによって組曲風にまとめられた交響的断章は、「百合の園」「法悦の踊りと第1幕の終曲」「受難」「良き羊飼いキリスト」の4部構成。今回は、これに先立って第3幕第1曲の金管とティンパニによるファンファーレも演奏されました。(事前には同第2曲のファンファーレも演奏されると案内されていましたが、これは第1曲とほぼ同じ音楽のため、演奏されていません)
中でも第2楽章に当たる第1幕の褶曲は、2度3度2度3度2度3度と上昇する特徴的な動機がホ長調で再現し、メシアンの「聖体の秘蹟」と同じ効果を出すのが印象的。この楽章にはヴァイオリンからチェロまで8人だけで奏する箇所もあり、「忘れられた捧げもの」と同時に演奏されることで気付く瞬間も。この辺りはカンブルランの真骨頂でしょう。
因みに聖セバスティアンの殉教は、フランス人指揮者でも全曲演奏に徹したデゾルミエール、アンセルメ、ミュンシュ、フルネのグループと、交響的断章で録音を残しているモントゥー、デュトワ派(カンテルリの名演も)があるようです。
ファンファーレを追加したカンブルランは、その折衷派ということでしょうかね。
プログラムの後半は、ドビュッシーに影響を受けた若きバルトークの大作。もちろん演奏会形式、字幕付での上演でした。第5の扉で圧倒的なオルガンとハ長調の大合奏があり、参加する金管のバンダ(トランペット4、トロンボーン4)はオルガンの隣で吹かれました。
前半の2曲に比べれば演奏機会の多い作品ですが、私はルカーチ/日フィル、飯守/東京シティで聴いたのに次いで3回目のナマ体験だと思います。
今回が前2回と違っていたのは、冒頭の吟遊詩人のプロローグが省かれていたことと、扉が開かれる際の(特に第1の扉と第6の扉)得も言われぬ溜息と鍵の音が一切出てこなかったこと。つまり音響的な効果を一切排し、純粋に楽器と声だけの再現に徹していたことでしょう。
そのためにオペラとしての劇的な効果が無かった分、作品そのものの音楽に集中することが出来ました。
こうしてメシアン、ドビュッシーと並べて聴くと、青ひげの犯した罪。ユディットが禁断の扉を開くように強要するのも罪。
それが事実だったのか、事実だとしても償いは成されるのか。答えが無いままにオペラは終了し、聴き手に更なる作品への興味を駆り立てるに十分なプログラムだったと言えそうです。
ユディットを歌ったフェルミリオンは背が高く、フルートから声楽に転向した由。特に低音部はドスの効いた凄みがある声で、彼女本来の声質がメゾ・ソプラノに合っているのでしょう。
ドイツ人のフェルミリオンに対し、青ひげのザボはハンガリーのトランシルヴァニア生まれ。ハンガリー語は自身の言語でもあり、完全に暗譜して歌いました。こちらも堂々たる体躯と声量。
現代モノ、オペラを得意とするカンブルランの指揮は悪かろう筈が無く、作品全体を交響曲の如く、バルトーク特有の黄金分割を意識させるような名演で客席の喝采を浴びていました。
今回の演奏は日本テレビが大掛かりに収録しており、いずれ最高の条件で放送されることが決まっているそうです。
はじめまして。
横浜のコンサート
いきたったのですが、
行けませんでした。
40年くらい日本フィルの協会員を
続けています。