読売日響・第568回定期演奏会

サントリーホールが改修中の読響定期、今シーズン前半は池袋の東京芸術劇場が会場。昨日は第568回定期を聴いてきました。
5月は当初スクロヴァチェフスキが振る予定でしたが、周知のようにマエストロの死去に伴って指揮者が交替した定期でもあります。曲目は発表通りでしたが、何と今や絶滅危惧種となったシャルク版での演奏とあって、色々な意味で話題になっていました。
亡きスクロヴァ翁を偲ぶように、ホールのホワイエではマエストロの遺品、書き込みのあるスコアなどが展示されています。早速そのスペースには多くのファンが集まっていました。

それはそれとして、今更シャルク版って何よ、ロジェヴェンさんのブルックナーってどうよ・・・。

ブルックナー/交響曲第5番(シャルク版)
 指揮/ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー
 コンサートマスター/長原幸太

ところが、これが実に面白い。感動ものと言ってすら良い体験でした。もちろん異論を唱える方があって当然でしょうが、私が感じたままを正直に綴っておきましょう。

先ずシャルク版ですが、そもそも私がブルックナーの第5交響曲をナマで初体験したのが、上野の文化会館で聴いたマタチッチ指揮のN響定期。当時は未だブルックナー演奏は稀で、現在の様にハースだのノヴァークだのという話題は一切なく、マタチッチの第5がハース版によると明記されてはいなかったと思います。
しかしこの時、舞台下手に金管のバンダが並び、シンバルとトライアングルも加わって上野の大ホールが圧倒的な大音量に満たされたことを良く覚えています。その時の腰が抜けるほどの感動こそが、私のブルックナー洗礼でもありました。
個人的に忘れられないブルックナー演奏は3種類あって、一つがマタチッチの第5、そしてカラヤン/ベルリン・フィルの第8、もう一つがオッテルロー/読響の第3。版がどうこうではなく、演奏そのものの素晴らしさが今でも耳に焼き付いているのです。マタチッチがバンダを動員したことを覚えているのですから、これは間違いなくシャルク版だったのでしょう。

シャルク版と言えば、有名なクナッパーツブッシュのデッカ盤LPがあって、私はこれも擦り切れるほど聴いていました。あれから半世紀、時代は流れてシャルク版は完全にレパートリーから死滅したはず。
しかし今回聴いてみると、確かにスクロヴァチェスキが同じ読響で提示した超明晰、構成的な第5とは正反対の響きに満ちています。その怪しげなカット版から聴こえてくるのは、多分に幻惑的ながらも、ブルックナーの真実の声、らしき音楽。
どんな小さな音も、和声の支えとなる目立たないパッセージも、真っ赤な血が流れている毛細血管のよう。意味のない音など一つもない、という印象でした。もちろんロジェストヴェンスキー氏独特の表現、カリスマ性が生んだ効果なのでしょうが、最初から最後までこれ音楽、という体験だったのも事実です。

想像するに、マエストロ(ロジェヴェンさんのような指揮者にこそ相応しい称号)はハース版もノヴァーク版も、はてまたキャラガン版などという新規参入組も百も承知の上。それらを知った上でのハース版というのは、“だって君、これが一番音楽的に優れているじゃないか。そう思わないかネ”と問いかけているよう。
最後にスコアを高々と掲げ、“あっ、いけね”とばかりに指揮台に戻したのは、確信犯と見ました。
音楽学者でも、プロの批評家でもない一クラシック音楽ファンとしては、感動できる音楽・演奏に出会えれば、それで良いのではないか。音楽を聴くってどういうこと? そんな根源的な疑問すら湧いてくるコンサートだったと言えそうです。

正直なのは聴き手の皆さん。盛大な拍手と歓声は客席の証明を明るくしても収まることはなく、舞台下に集まった善男善女にマエストロが再び登場し、チョッとお茶目な仕草で対応していたのが如何にもロ翁。
機会があったら、またサプライズを届けてください。

ところで今回の「シャルク版」、第2楽章や第4楽章にヴァイオリン、チェロがソロで動く箇所がいくつかあって、これが木管のソロと絡んで室内楽的な効果を出すのです。
実はシャルク版はペトルッチの楽譜サイトで閲覧することが出来、いろいろ当たってみましたが、ハッキリと「ソロ」と指示している箇所が見つかりません。ロジェストヴェンスキーはシャルク版を譜面通りに演奏したのでしょうか。
改めてクナ盤など、様々な古いエディションをスコアを睨めっこしながら聴き直して見たくなりました。それこそ、19世紀へのタイム・スリップかも知れません。

 

 

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