京都市交響楽団・第617回定期演奏会

「13日の金曜日」、そういうことには拘らず京都に行ってきました。紅葉には未だ早いし、特段に見物したい行事も無く、もちろん京響を聴くためでした。
それでも少し早めに京都入りし、伏見に下って酒蔵などを見学。三条に戻って小休憩を取り、北山へ。いつものパターンでもあります。つい先月、サントリーホールで東京公演を大成功させた広上淳一とのコンビで、10月定期は、

ウォルトン/「スピットファイア」前奏曲とフーガ
ショスタコーヴィチ/ヴァイオリン協奏曲第1番
     ~休憩~
ブラームス/交響曲第1番
 指揮/広上淳一
 ヴァイオリン/ボリス・ベルキン
 コンサートマスター/渡邊穣
 フォアシュピーラー/泉原隆志

見ても分かるように、今回は王道のプログラム。京響は毎回指揮者によるプレトークがありますが、そこでも宣言されていたように、アンコールは無し。無くても満腹感は100%以上が予想される選曲で、実際手応え満腹の一夜でした。
この定期は数日前には完売。サントリーホールでも「完売公演」は良くありますが、東京都とは違って京都の客席は本当にぎゅう詰め状態(もちろん空席ゼロではありませんが)なのです。休憩時にトイレに行くと、男性トイレでさえ蜿蜒長蛇の列で、後半に間に合わないのじゃないかと気に揉んだほどでした。そもそもこのホールが満席になることを想定していなかったのでは、と勘繰るほどで、この辺りはホールの改善項目かも知れません。

柴田チーフマネージャーと広上マエストロのプレトークは、東京公演の大成功レポートから。その盛況ぶりは東京で聴いた我々も実感して来たばかりですから、大いに頷きます。京都の会員に向けたリップサーヴィスじゃ決してない。
その後は、チューバ奏者の武貞茂夫氏を加えて、ショスタコーヴィチの第3楽章でヴァイオリン・ソロとチューバが対話する珍しい掛け合い個所について。それでも話題は京都交通博物館の「デゴイチ」D51 の展示が10月一杯で終了してしまうというテッチャン・トークから始まるという京響らしいテーマでしたね。

最初に紹介されたウォルトン作品は、第二次世界大戦中に作成された映画のための音楽。タイトルは英国空軍の戦闘機の名称で、この飛行機を開発したミッチェルの姿を描いたフィルム。
前奏曲は映画のオープニング、フーガは戦闘機スピットファイアの組み立ての部分、途中に挿入されるコンサートマスターのソロは、衰弱していくミッチェルとその死を描く場面の音楽とのこと。演奏会用に再編された作品は初演時から好評だったそうで、ウォルトン自身の指揮による録音も残されているのだそうです。私は今回初めてナマ演奏で聴きましたが、2管編成を主体としながらウォルトンらしい「カッコイイ」響きで、特に最後に一発だけ鳴らされるチューブラー・ベルが印象的でした。

続いてベルキンを迎えてのショスタコーヴィチ。ベルキンは盟友広上とこの作品を何度も取り上げており、私も日本フィル定期で体験済み。相変わらずスリリングな丁々発止に、京都の聴衆からも万雷の拍手が贈られました。
ズバリ言えば、現在では世界最高のショスタコーヴィチ第1の演奏。今年69歳とは思えないベルキンのガダニーニが唸り、そのカデンツァは客席も、オケのメンバーも息を呑む様な緊迫感に包まれます。カデンツァからフィナーレに突入する場面のタイミングは、流石に広上とのコンビ、髪の毛1本ほどの乱れも無く最後の熱狂が繰り広げられるのでした。オケのみの前奏部で、ベルキンもホッと一息。

何度もカーテンコールがありましたが、最後は楽器を持たずに登場したベルキンが、渡邊コンマスの手を引いて退場し、休憩に。

後半はブラームス、しかも交響曲第1番は最も人気のある作品。広上は作曲者と同じようにこれまでブラームスには慎重で、私が彼の指揮で全曲を真剣勝負で聴いたのは、実は初めてです。今期は既に定期で第3番を取り上げ、それは名古屋で接しましたから、このあとも2番、4番で全曲演奏を完成させるのでしょうか。
プレトークで“これまで積み重ねてきたことを淡々と表現する”と語っていた通り、決して力むことなく、ハッタリを効かせることも無く、オーソドックスで伝統的な堂々たるブラームスに終始。当然ながらテンポは遅めになりますが、弛緩する箇所は皆無。ズシッとした重厚な低音が交響曲の礎石として機能していることが判ります。それでいて新しさの無い凡庸さとは程遠いのが、広上の広上たる所。

例えば第1楽章、再現部に向けて音楽が次第に熱を帯び、第333小節と334小節でハッシと打ち鳴らされるティンパニの豪打。それに続く再現部冒頭の低弦の2連音符(340小節)の凄まじい表現力。
第2楽章の主題の歌わせ方も尋常じゃありません。時にファースト、更にはセカンド。ある箇所ではヴィオラがすっと浮き上がったり、チェロが、コントラバスが陰影を際立たせたりと、テーマそのものが実に立体的に描かれて行く。最初の10小節ほどの中に、ブラームスの全てが、人生の喜怒哀楽がそっくり表現し尽されているかのような印象を残すのです。改めて第2楽章の奥深さを実感させられたと言うべきでしょうか。

第3楽章と第4楽章の間、アタッカで休みなく演奏されることも多い個所ですが、広上/京響は短いながらも敢えて休みを置く。
そしてフィナーレ、ピツィカートの応酬が意味深く奏でられ、聴き手は思わず息を呑んでしまうのでした。壮絶なフィナーレもオケを煽ることなく、堂々たる伽藍としての表現。これほど安定感に満ちたブラームスの第1交響曲は、現代では稀な体験かも知れません。
広上はどの作品でも暗譜はせず、指揮台にスコアを置いて指揮します。これはもちろん彼が譜面の細部を覚えていないということではなく、あくまでもプレイヤーの為なのでしょう。
第1楽章の提示部繰り返しはスコアを前に戻しませんでしたし、第4楽章もフィナーレに入る所でスコアを閉じてしまいました。こういう光景は、彼には珍しい部類だと思います。

大歓声に応えたマエストロのガッツ・ポーズ。広上/京響の充実ぶりが思わず滲み出た瞬間でしょうか。
いつものように演奏後のレセプションがあり、今回はベルキン氏も参加。簡単なスピーチで盟友とオケを讃えていました。ところで今回の定期、15日の日曜日には兵庫のコベルコ大ホールでも同じプログラムの公演が予定されています。
またベルキンは同じショスタコーヴィチを次の週の週末にラザレフ/日本フィルでも演奏。私はこれも横浜で聴くので、二つのオケ、二人の指揮者との違いが楽しみでなりません。それはベルキン本人も同じことでしょう。

 

 

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