クァルテット・エクセルシオ第33回東京定期演奏会

クァルテット・エクセルシオ(以下「エク」)の東京定期演奏会は年2回、春・夏シーズンのコンサートは札幌でも同じプログラムで「定期演奏会」を行い、秋シーズンのプログラムは京都で「定期演奏会」を開くというスタイル。今年は札幌が第10回、京都は第13回を数えますから、このスタイルが定着してからだけでもワン・ディケイドが経過したことになります。一口に10年と言ってもこれは大変なことで、例えば一昨年はメンバーの故障で変則的な選曲になったし、去年はベートーヴェン全曲演奏会とドイツ演奏旅行が重なったため定期は年1回、札幌はお休みと言う年でもありました。

今年は無事に、というか本来のパターンに戻り、秋シーズンの第33回が11月12日に上野の東京文化会館小ホールで開催。同じプログラムは11月8日、京都定期として京都文化博物館別館ホールでも披露され、会場もほぼ満席に近かったそうですね。
このプログラム、定期では毎度ことですが事前に試演会も行われ、10月31日に奥沢のサロンで予習も済ませています。今シーズンのエクはシューベルトをメイン・テーマに据え、メインは大曲ロザムンデというドイツ音楽プログラムを並べました。

ハイドン/弦楽四重奏曲第41番ト長調作品33-5
ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第4番ハ短調作品18-4
     ~休憩~
シューベルト/弦楽四重奏曲第13番イ短調「ロザムンデ」

エクの定期は自由席が原則ですので、開場の30分ほど前から小ホール受付の前に席取りの列が出来始めます。当方も時間には十分に余裕があるので、何となく列に並んでしまいました。毎度の光景ですが、今回はいつもより列が長くなっているような様子。
開場時間になると、先頭の連中は駆け足ではないものの、速足でかぶりつき席に殺到します。このホールは入り口が2つあるのですが、事情通のファンは迷うことなく近い方の入り口から我先に。見ていて思わず笑ってしまいますが、人のことは言えません。私共も後ろから押されるように前方の席に一目散、流れには逆らわないのがよろしいようで・・・。

席に着いて一息、プログラムに挟まれた「エク通信」から目を通します。昔の学級新聞を連想させるペラ1枚の通信は、毎回メンバーの何人かが音楽とは余り関係の無い話題を書き散らし、コンサート前の張り詰めた雰囲気を和らげる効果も。
最初の内は気が付きませんでしたが、東京・札幌・京都は夫々別の内容になっていて、年4回は発行されている勘定になります。これがファンの間では結構な楽しみになっていて、例えば今回はヴィオラ吉田の骨折の話題と、ファースト西野の自宅商店街の話。偶々隣に座られた見ず知らずの紳士が、
“西野さんの住んでいるのは何処ですかね”と声を掛けられます。“昔なら鷹揚に町の名前も書いちゃうんでしょうが、最近は個人情報とか煩いですからね。どうしても伏字になっちゃうんでしょう”などと返す。そんな会話が彼方此方で花咲いている内に、ハイドンが始まるのでした。

ここからは真面目な話で、大好きなハイドンの作品33から第5番。作品33というと「冗談」(第2番)と「鳥」(第3番)が良く演奏されますが、第5番は特にニックネームも無く、ナマで聴く機会は決して多くないでしょう。
プログラムの曲目解説(渡辺和氏)によると、「いつからか“How do you do”と読まれるようになった4音の短い序奏」で始まりますが、この属音から主音に上がる形はいわゆるカデンツ(終止形)ですよね。ハイドンの面白さは、2つとして同じ趣向の作品は無い実験的な作曲家であること。このト長調四重奏曲の最大の実験は、作品を終止形から始めてしまうという奇抜さにあると考えています。

このカデンツ、実際に第1楽章の終止にも再登場しますし、終止形に特徴があるという意味では第2楽章と第3楽章にも共通します。更に深読みすれば、第1楽章の提示部は第3小節目からで、提示部は普通そっくり繰り返されます。もちろん繰り返しの際には「たった2小節の序奏」は省略。
そこで思い出すのが、ベートーヴェンのエロイカ交響曲。あの大作は「たった2小節の序奏」で開始され、そのインパクトが当時の聴衆の度肝を抜き、ベートーヴェン独自のアイディアということになっていますが、実はハイドンがエロイカの22年前、この四重奏曲で実験していたんですねぇ~。私は単なる素人ですから勝手なことを書きますが、ベートーヴェンが師匠ハイドンの四重奏曲を知らなかったとは、とても思えません。エロイカの序奏がフォルテで、主部がピアノで開始されるのに対し、ハイドンは序奏をピアニシモで始め、主部はピアノと音量を上げるのが如何にも暗示的。この対比をエクが見事に弾き分けてくれたので、小生の頭は思わぬ方向へと連想して行った次第です。

もう少しハイドンに拘ると、第2楽章はまるでロマン派のようなラルゴ・カンタービレが意外だし、最後は終止形のあとで全員揃ったピチカートというのも意表を衝いてますね。そもそも第2楽章と第3楽章を入れ替える、というのもハイドンの実験の一つだし、第3楽章がメヌエットではなくスケルツォというのも、そう。エクも如何にもスケルツォというテンポでハイドンを主張してくれましたし、スケルツォ最後の終止形が第1楽章と相似関係にあることにも気付かせてくれるのでした。
フィナーレは変奏曲で、最後のプレストはギャロップ。附点音符の8分の6拍子というテーマは、あれれ、モーツァルトのハイドン・セット第2曲K421の終楽章と同じですよね。作品33がモーツァルトを刺激してハイドン・セットを産んだというのは批評家が度々指摘することですが、この楽章の類似性は正にそれを証明するのじゃないでしょうか。
いろいろと音楽史に思いを馳せ、想像を逞しくさせるハイドン演奏。これに続けてベートーヴェンの作品18というプログラムの意味。チェロ大友氏がプログラム誌で語っているように、“一番難しいのはハイドン。気楽になんて出来ない”のがハイドンでもあります。それは聴き手も同じことで、私は「一番聴き応えがあるのがハイドン。気楽になんて聴けない」と思わず唸ってしまいました。

ベートーヴェンとシューベルトについては改めて細かく触れることも無いでしょう。去年の全曲演奏より更にスタイリッシュでストレートな表現として聴こえたベートーヴェン、ベートーヴェンとはまた違った「刻み」を弾ませたシューベルト。共に常設クァルテットならばこその間合いと呼吸が耳に心地よく、しかも一々が腑に落ちる音楽的な表現で、説得力に満ちた定期演奏会となりました。
今シーズンのMCを務める大友氏が、“いつも定期演奏会ではアンコールはやりませんが、今回は皆様への感謝を籠めて”ということでパーシー・グレインジャーの名作「岸辺のモリー」。オーケストラ版もある小品ですが、今回の弦楽四重奏、乃至は弦楽アンサンブルが本来の形。確か以前にも蓼科でアンコールされたはずです。

ところで今回配られたチラシの中には来年春の長柄音楽祭、つくばリサイタル・シリーズ、大塚グレコという聞き慣れない会場でのコンサート等々の新情報があって、これを書き終えたら関係各所に問い合わせて見なければ。来年度も中々忙しいエクではあります。

 

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