読売日響・第572回定期演奏会

11月19日、日曜日の午後、久し振りに赤坂サントリーホールで読響の定期演奏会を聴いてきました。10月の定期はお休みだった読響、サントリーホールの改修中は池袋の東京芸術劇場で定期を開催していましたから、サントリーに戻ったのは今年1月末日以来の事でしょう。前回のサントリー定期がメシアンの彼方の閃光でしたから、読響の音は2回続けてサントリーホールに鳴り響いたことになります。今回のメシアンは、

メシアン/歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」(演奏会形式/全曲日本初演)
 指揮/シルヴァン・カンブルラン
 天使/エメーケ・バラート(ソプラノ)
 聖フランチェスコ/ヴァンサン・ル・テクシエ(バリトン)
 重い皮膚病を患う人/ペーター・ブロンダー(テノール)
 兄弟レオーネ/フィリップ・アデス(バリトン)
 兄弟マッセオ/エド・ライオン(テノール)
 兄弟エリア/ジャン=ノエル・ブリアン(テノール)
 兄弟ベルナルド/妻屋秀和(バス)
 兄弟シルヴェストロ/ジョン・ハオ(バス)
 兄弟ルフィーノ/畠山茂(バス)
 合唱=新国立劇場合唱団
 びわ湖ホール声楽アンサンブル
 (合唱指揮=冨平恭平)
 コンサートマスター/長原幸太
 オンド・マルトノ/ヴァレリー・アルトマン=クラヴリー、大矢素子、小川遥

ということで、大曲も大曲。カンブルラン念願のオペラ全曲演奏ということで、読売グループの力の入れ様も大変なものでした。東京では定期のあと26日の名曲シリーズでも演奏することになっていますが、信じ難いことに両日ともチケット完売とのこと。更には23日はびわ湖ホールでも出張公演が予定されており、メシアン好きはこの畢生の大作を3度も続けて聴くチャンスがあるわけ。何ともご苦労様なことではあります。今年最大の音楽事件でしょうか。

午後2時に開演、全曲が終わった時に時計を見たら午後8時でしたから、2回の休憩(各35分づつ)を入れて6時間。カンブルランのテンポが遅めということもあって、音楽の正味だけでも5時間弱と言う難行苦行を強いられますから、これから聴く方は覚悟が必要です。全体を完聴して感ずるのは、一にも二にも疲労感でした。
こうなると私の頭と耳の能力を完全にオーバーフローしてしまう世界ですから、感想の纏めようもありません。ここは思いつくままに書き散らしていくことにしました。あくまでも野次馬・素人の書くことですから、細かいことを突っ込まないように・・・。

長さも長しですが、楽器編成も膨大なもので、舞台上は立錐の余地も無いほど。例えば打楽器は鍵盤打楽器(ヴィブラフォン、グロッケンシュピール、シロフォン、シロリンバ、マリンバ)以外にも5人が必要で、風の音を出す楽器(ウインドマシーン)や雷の音を出す楽器(サンダーシート)などを含めて34種類も並びます。スコアには弦5部の人数も指定(16・16・14・12・10)されているそうですが、コントラバスは見た所7台(?)しか乗っていなかったようでした。
更にはオンド・マルトノが3台も(!!)使われるのが目を惹く所ですが、舞台上には乗り切らず、1台はオルガン席の下、残る2台は2階客席RBブロックとLBブロックの最高列に置かれます。私は1階平土間なので2階は見えませんでしたが、終了後に指揮者の指示で答礼するのを見て、“あ、あそこで弾いていたのか”と判る程度。しかし音響的には絶大な効果があり、3台のオンド・マルトノが繰り出す不思議な音が、ホール真ん中辺り中空から舞い降りてくるのは壮絶な聴きモノでしたね。2階席やホール後方ではどのように聞こえたのでしょうか。

折角の機会ですから予習を、と考えるのは自然な成り行きですが、出版社のアルフォンス・リュデュックはただでさえ高価なことで知られる楽譜。全8場は夫々1冊づつのスコアに分冊されており、例えばアカデミアで注文すれば全曲で45万8千60円も掛かります。1曲に45万円などは個人が買えるレベルではなく、図書館アイテムでしょう。従って私はスコアは唯の1音符も見ていません。
それでも何か参考になるもの、と考えてネーデルランド・オペラの上演をDVD化したものを手に入れました。これなら数千円で済みます。残念ながら日本語字幕は無いので、英語と映像だけが頼り。このオランダ公演は舞台上演ですが、オーケストラが舞台奥に並び、歌手たちは舞台前面で演技する方式です。

今回の日本初演はオーケストラの定期演奏会と言うことで、純粋な演奏会形式。もちろん歌詞に合わせて歌い手も表情は作りますが、オペラとしての演技は一切ありませんし、演出も照明効果もありません。それがために音楽の進行が必ずしも理解できたとは言い難いのが難点でしょう。100名を遥かに超える合唱団がP席に陣取り、天使役は場面に応じてオルガン下と舞台とで歌います。
備忘録を兼ねて、オペラの大筋とポイントを記しておきましょうか。

第1幕は3つの場面から成り、夫々の場にはタイトルが付されています。この幕は修道士フランチェスコ(原語はフランス語なので「フランソワ」)が「聖フランチェスコ」に成るまでが描かれます。
第1景「十字架」では、フランチェスコと兄弟レオーネとの会話でキリスト新教(カトリック)の教義が説明される。
第2景「賛歌」で兄弟ベルナルド、シルヴェストロ,ルフィーノが登場し、ミサ「太陽の賛歌」を歌う。3人のユニゾンに男声合唱が和しますが、仏教の読経とそっくりなのに笑ってしまいました。
第3景「重い皮膚病患者への接吻」が第1幕の肝で、重い皮膚病とは俗称では書けませんが、いわゆる「The Leper」のこと。上方から聞こえる天使の励ましによってフランチェスコが患者と抱擁するところは、指揮者の左右に振り分けられた二人が指揮台の手すりに触れることで「接吻」を表します。舞台上演ではないための苦肉の策ですが、事前にあらすじを知っておかないと理解できないかも。この行為によって、フランチェスコが「聖フランチェスコ」になる重要なポイントで、メシアンの音楽は彼の中でも最高傑作の1ページと呼んでも過言ではない美しさ。この素晴らしい響きで第1幕が閉じられます。

第2幕は聖フランチェスコの業績がテーマ。
第4景「旅する天使」は天使と修道士との問答で、聖フランチェスコが登場しない唯一の場面。天使が戸を叩く時の激しいリズムと重いオーケストレーションが聴き所。
第5景「音楽を奏でる天使」では天使と聖フランチェスコの会話となり、天使の奏でるヴィオールの音楽に失神する聖フランチェスコ。ここも失神は演じられず、その積り。
第6景「鳥たちへの説教」が絵画でも有名な場面で、恐らく全曲でも最も長大な場面でしょう。世界各国の鳥たちが登場し(もちろん演奏会形式では鳥は出ませんが)、聖フランチェスコが兄弟マッセオに解説。この場面では鳥の名前があまりにも詳しく、聖フランチェスコとはメシアンその人のことではないかという考えが、チラッと頭を過りました。そういう演出、解釈も可能ではないかと。この世界鳥類図鑑の解説に続くのが「小さな鳥たちのコンサート」で、このあと肝心な鳥への説教が始まります。説教に続いて「大きな鳥たちのコンサート」が奏でられ、最後は鳥たちが東西南北に散っていく。この東西南北が十字架の4つの方向に当たる、というのがミソですが、演出が無いので事前に理解しておくことが求められます。

第3幕は聖フランチェスコが傷を負い、死に至る場面。
第7景「聖痕」ではキリストと同じ5つの傷を負う聖フランチェスコが描かれ、第4景で登場した天使が戸を叩く音が5度に亘って再現(5回目は合唱)することで、5つの聖痕を表現。ここも音だけで理解すること。
第8景「死と新生」で、聖フランチェスコは修道士や天使、The Leper が見守るうちに昇天。このあと舞台上演なら聖フランチェスコが死んだ場所に強い光が当たって「新生」を表現するところですが、今回は音楽のみ。ここも事前にプロットを知っておかないと理解不能かもしれません。

長くなりましたが、以上があらすじ。
メシアンの音楽は意外に単純で、ワーグナーばりに15種類のライトモチーフを繰り返し用います。特に弦合奏による「聖フランチェスコ」の主題は誰でも耳に残るでしょうし、The Leper の場面から度々登場するトゥーランガリラ交響曲に似た「完全な歓びのテーマ」も直ぐに気が付くでしょう。

歌手では圧倒的に聖フランチェスコが大役で、ほとんど全編歌いっ放しの印象が残ります。今回のフランス人歌手テクシエは圧倒的な存在感で、流石に疲れた最後の場面では、却って死に行くフランチェスコがリアルでした。
当初、兄弟レオーネはフィリップ・スライが予定されていましたが、体調不良のためアディスに交代。そのアディスを始め、他の歌手たちも見事に夫々の役を歌い切りました。なかでも The Leper 役の英国人テノールのブロンダーは素晴らしい美声で、第3景の歌だけで終わってしまうのは勿体ないほどでした。

それでも最も大変だったのは、やはり指揮者でしょう。冒頭のヒバリの歌声からして変拍子の連続で、全体を通して休めないのはカンブルランだけ。
「鳥たちのコンサート」では、右手はメクラ剣法さながらに切りまくり、左手は指を1・2・3と数えながらオケに指示を出す。スコアを見ていないので判りませんが、ここは偶然性手法でも取り入れているのでしょうか、指揮者を見ているだけでドッと疲れました。

ところで「アッシジの聖フランチェスコ」、オペラとしての評価はどうなんでしょうか? 第1景ではキリスト旧教の教義が語られますが、カトリック教徒でもない私は先ずそこに引っ掛かってしまうのです。
人間は生れ落ちると他人のために、世の中のために自分の身を犠牲にしなければならぬ。いわゆる十字架を背負って歩まねばならぬという教義は、中世ヨーロッパが自給自足の封建経済で収まっている間はシックリきていましたが、貨幣が流通し、経済規模が大きくなってしまうと、彼方此方に矛盾が生ずる。これへの反動がいわゆるルネサンスで、聖フランチェスコの生涯がオペラの題材に成ること自体、現代では若干の違和感を感ぜざるを得ません。

そこでストーリーには目をつぶり、音楽だけに身を委ねていると、ホール全体を駆使した空間音楽にはそれなりの快感がありました。時折スマホの着信音が聴こえるかと思いきや、それがオンド・マルトノだったりするのは面白くもあります。
特別なメシアン好きでもない私としては、この大作は一度体験すればそれで十分でしょう。仮に舞台上演でもあれば行ってみたい気も残っていますが、少なくとも一生付き合っていく音楽ではない、というのが私の感想。

最大の功労者カンブルランには絶大な称賛が浴びせられ、最後は楽員全員が舞台裏に去った後でもマエストロを呼び出す儀式に。読響はこの種の儀式が時折生じますが、私は苦手なので早々に退散しました。キリスト教オペラが日本でこれほど歓迎されることに不思議な感を抱きつつ。

 

 

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