二期会公演「こうもり」

今週は音楽会通いに忙しく、日曜は読響定期でメシアンの宗教オペラ「アッシジの聖フランチェスコ」を演奏会形式で、1日置いて火曜日はサルビアホールでアイズリ・クァルテットを聴き、昨日は有楽町の日生劇場でまたまたオペラ、いやオペレッタを観てきました。日曜のメシアンが「聖」の世界だったのに対し、昨日は「俗」の世界。世の中、聖と俗の合間程面白いものはなく、私共は4日間の間にその楽しみを満喫してしまったことになります。やはり私は俗に生きる人間だ、ということも確認した次第。

ということで、昨日の演目は、

ヨハン・シュトラウスⅡ世/「こうもり」
 アイゼンシュタイン/小森輝彦
 ロザリンデ/澤畑恵美
 フランク/山下浩司
 オルロフスキー/青木エマ
 アルフレード/糸賀修平
 ファルケ/宮本益光
 ブリント/大野光彦
 アデーレ/清野友香莉
 イーダ/秋津緑
 フロッシュ/イッセー尾形
 合唱/二期会合唱団
 管弦楽/東京フィルハーモニー交響楽団
 指揮/阪哲朗
 演出/アンドレアス・ホモキ
 舞台美術/ヴォルフガング・グスマン

二期会創立65周年、財団設立40周年記念公演シリーズの一環。去年も二期会で同じシュトラウスの「ウィーン気質」を堪能しましたが、そのときと同じくベルリン・コーミッシェ・オバーとの提携公演で、阪哲朗と澤畑恵美の名コンビ再現でもあります。加えて今回は大好きなホモキ演出と言うことで、企画が発表された時に直ぐ、“これは絶対行くぞ”と決めていました。

11月22日が初日、このあと26日までの5日間連続キャスト日替わりで公演され、私が聴いた組は3回も聴けることになります。初日の様子を書いてしまうとネタバレになってしまいますが、敢えて紹介しちゃいましょう。自分の眼で見、耳で聞いてから、という方はここで戻るボタンをクリックして下さい。

「こうもり」は通常3幕モノとして上演されますが、ホモキ演出では全体が見直されて2幕に割り振られます。定番の第2幕で歌われるシャンペン歌が終わった所で幕が下り、20分の休憩。これがミソですが、後で詳しく書きます。
前回のウィーン気質では全編日本語訳で歌い、演じられましたが、今回は歌はドイツ語、台詞は日本語訳。こうもりの場合は歌と台詞が明確に分かれているので、これは大正解でしょう。プログラムにホモキ氏の演出コンセプトが掲載されていますが、その中で氏も「歌は建前で、台詞は真実を語る」と語っていますから、その意味でもシックリ来る舞台です。

開幕前に舞台全体に大きなシートが掛けられており、置かれた家具のシルエットが浮かび上がっています。観客に、家具そのものに意味を持たせているのかな、と暗示させる効果か。序曲の最後でシートが引き上げられ、舞台には1870年当時のアイゼンシュタイン家が姿を現します。
この舞台、各幕で入れ替えられることは無く、そのまま舞踏会の舞台ともなり、最後の刑務所にもなる仕掛け。そこは舞台中央奥の大きなドアや、据えられた家具を動かすことで解決していきます。

以下ホモキのコンセプトを参考に見て行くと、オペラの出来事全てがファルケ博士の仕返しという設定。もちろん原作でもファルケの復讐であることには違いありませんが、ここでは舞踏会はそもそも存在しないし、ホストであるオルロフスキー公爵も実際の公爵でなく、この役を演じている女性なのです。第2幕に当たる舞踏会開始の場面でそのことが明らかにされますし、オルロフスキー役は終始ファルケの言いなりになる様子が描かれます。時に公爵は男性(ファルセットを使うことも)という演出もありますが、今回のホモキ演出ではオルロフスキーは女性で、わざと下手に男を演じる女性として明確にされていました。

舞台装置(ベルリン・コーミッシェ・オパー製作)からも分かるように、作品を現在に移し替えることはせずに、当時の時代背景のまま。当時の社会的な問題は、現代の社会に引き継がれている、ということの象徴でもあると見ました。
ホモキがこれを単なるドタバタ喜劇、大晦日の暇つぶしとは考えていないのは明らかで、こうもりには「悲しみ」が含まれている、という見解。オペレッタというよりオペラに近い音楽劇として見做されているようです。そして「歌は建前で、台詞は真実を語る」と述べていることからも分かるように、こうもりは音楽付きの芝居であって、歌手たちには演技力が求められます。台詞の場面にも緻密な演出が施され、単なるアドリブの連続ではありません。もちろん全ての動きが細かく計算されている。

ホモキ演出では過去にも「フィガロの結婚」、「ばらの騎士」を見たことがありますが、必ず出てくるのが「崩壊」というテーマ。「こうもり」でも、第1幕相当が終了して直ぐに第2幕部分に入ると、置かれていた家具が傾き始めます。休憩の後、刑務所のシーンに移ると、その崩壊は更に進度を加え、ソファーはひっくり返り、天井のシャンデリアさえ床に崩れ落ちてしまう。
これを見て私は第一次大戦でヨーロッパ君主制が消滅することを象徴しているのか、と考えましたが、やがてそれは間違いだったことに気が付きました。演出家はそこまで明示はしませんが、この崩壊はもっと市民的なレヴェル、敢えて言えばアイゼンシュタインとロザリンデの夫婦関係の危機ということではないでしょうか。世界秩序の崩壊などと言う大袈裟なことではなく、嘘で固められた人間関係の崩壊。

それを暗示するのが、普通なら第2幕の最後で「あなたも、あなたも皆兄弟姉妹になりましょう」と歌われるワルツ。ここでは客席に仄かな照明が当り、舞台は逆に薄暗くなる。ワルツの最後には舞台上の全員が客席に向かって「Du,Du」と呼び掛ける。
これは即ち、こうもりの出来事が歌手や役者の事ではなく、この日聴きに来ているお客さん、みなさんの事ですよ、という呼び掛けではないのか。
刑務所の場面ではイッセー尾形演ずるフロッシュ(抱腹絶倒)が、日生劇場! と叫ぶところで客席に照明が、刑務所! と号令すると舞台に照明と切り替える見せ場を見ても判る筈。つまりホモキは、「ドゥドゥのワルツの奥には、明らかに、何か非常に深いもの、本当の憧れ、団結への願望が潜んでいる」と見ているからで、それをこのような形で表現して見せた、と私は見ましたがどうでしょうか。もちろんホモキは大きな疑問、憧れとは何かの答えは明示しませんが、最後の最後でそれらしきシーンを用意しています。余りにも咄嗟の事で私は考え損ないましたが、もう一度見たい幕切れでしたね。
そしてアイゼンシュタインとロザリンデの和解が成立すると、倒れていたり傾いたりしていた家具は元に戻され、シャンデリアも目出度く天井へ。崩壊した(しそうになっていた)のが人間関係だったことがこれで証明されます。

以上かなり詳しくネタバレをしてしまいましたが、他にも当演出の第2幕の前、未だ休憩から客席に戻っていない人たちがいる中で、ピットでは「ハンガリー万歳」が何の予告も無く(指揮者の登場も知らされず)始まってしまいます。音楽が始まっても未だ、客席もお喋りに夢中で、まるで我々自身が舞踏会に参加しているよう。これも舞台と客席を混同させてしまおうというホモキのアイディアでしょうか。
その阪の指揮は相変わらずテンポが良く、リズムも活き活き。こうした音楽を振らせれば天下一品のマエストロでしょう。

歌い手、というか役者たちも夫々に達者。特に小森アイゼンシュタインと澤畑ロザリンデは貫禄十分。舞台と現実とを忘れさせてしまうほどに笑わせ、泣かせてくれました。

暖かくも悲しいシュトラウスの音楽に酔い、ホールの出口に向かうと長い列が。何事かと思うと、初日だけの特典としてS席購入者にはスパークリング・ミニボトルがプレゼントされる由。係に問い合わせたのを口実に、列に並んでしまいました。
ところで初日、11月22日は「いい夫婦の日」なんだそう、道理で。みなさん、ロザリンデとアイゼンシュタインを見習って、夫婦仲良く暮らしましょうね。やっぱり「俗」は良いなぁ~。

 

 

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